神仏というものは不在であるが故に存在するものであり、存在した途端に不在となるものである。
これは、どこかで聞いたことがあるような理屈だが、自己と似たようなものであり、
過去や未来や、結局、あるもの全てがそうであるようなものなのである。
・・・てなことを旧年深夜〜年頭にあたって考えてた。
理由は簡単である。
こんなのを久し振りに見てしまったからだ。
かかる類をケシカラヌとされる方には大変に恐縮なのだが、
こんなものが簡単に見られる時代になったんだな〜、
と感心して見てしまう私めで御座いまして。
こういう単細胞的思考にのみ浸ってはいけませぬな・・・
ということで気付かぬうちに夜が過ぎるように、
気付かぬうちに陽が沈むようにコノ場はやり過ごし。
そう、きっと誰のせいでもない。
そして出来得れば全てが。
いや全てが誰のせいでも何のせいでもあり得ない。
それが哀しみの正体なのかもしれないと想う。
それでも年は変わり、新年になって、歳を重ね。
ところで
「アヤヤ」は大して好きでもないどころか興味もなかったが、
ナルホド、なんでも見聞・体験するのは良いことだ。
この歌をこよなく好む私が「歌うな」と思わずに聞くことは珍しい。
PVの背景は、多分、渡良瀬橋の現物である。
実際は貧弱と言ってよいこの橋から見る夕陽は、しかし確かに美しい。
山々もまた。
それはともかく詩的な在り方の一つに不在と存在を一に示すことがあるとしたら、
人が何の役にも立つとは想えない詩的存在に惹かれ続ける理由も分かる気がする。
いや、少なくとも私については分かる気がする。
読んでも読まなくても。書いても書かなくても。○でも×でも・・・etc.
一に示すということがなんなのかについてはサッパリ分からないが。
何を書きたかったかというと、
目出度くもなかろうと言われようとなんだろうと、
やはり元旦は謹賀新年だろうと想い、
今年も佳き年を、そして日々をお過ごし下さい、と。
何よりも私にとって、さらに目出度い年であって欲しい、と。
そして年賀状を31日に書くバカがおるか、という反省と、
今日からの数日間に亘る忸怩たる想いに先立つ反省というか言い訳というか。
そう言えばテレサ・テンについて書こうと想ってたのを忘れてた。
私が、何故か幼少から強く惹かれていたこの女性について、
浅田次郎は「アイドルについて(from 勇気凛々ルリの色」で、
「彼女の魅力は、悪いやつでなければわかるまい。」と書いている。
彼の定義によれば「ろくでなし」と「ひとでなし」は異なり、
彼自身は「ろくでなし」だが「ひとでなし」ではないという。
とすると、私も「ろくでなし」ではあるということになってしまうのか?
とも想うが心当たりがないとはとても言えないので言わない。
神仏はおろか義理人情もへったくれもないもんだ、
という人生観を抱かざるを得ない時期というのは過ごすこともあるだろう。
それはともかく、続けて彼女はまた、そういう輩にとって
「決して口に出せぬ『良心』そのものだった。」とも。
「だからお願い、そばに置いてね・・・」遠く離れているからこそ、こんなにも近くにいる。
いつも近くにいるからこそ、こんなにも離れている。
そんな歌詞は、よく耳にする。
つまり、そういうことなのか。
テーマ:物書きのひとりごと - ジャンル:小説・文学
- 2007/01/01(月) 13:26:44|
- ご挨拶
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4