遠い陽光の中に消し忘れられた落書

「詩の入神紀」に寄せて

ただただ魅入られてしまう、それとは別に、ただただ没頭してしまう。
二つの違いは大きい。後者は神を見ることはあるかもしれないが近付くことは出来ず、後者は神を見ることは出来ないかもしれないが近付くことは出来る。

ここ数日、頭から離れない「非在としての主体」というのは何なのだろう?とボンヤリと想いながら、そんなことを考えていた。もちろん「主体」というものが存在するのか不在なのかという二項の折衷としてではなく、「主体」というものは非在で、非在であるが故に存在するという在り方を示す、二項に対して言うならば、いわば「矛盾項」なのだ。
だから「私」もまた、信じる限りにおいて「いる」と言えるし、また信じていない「私」など存在しない、とも。そして多分、それは実存的な「信じる」とは違うフェイズで生じる「信じる」なのだろう。

その「捩れ」の中に「自分」を紛れ込ましてしまうことは、きっと重大な、いや、必ず重大な崩壊を招く・・・故に、それらは秘匿されるべきものとしてしか伝えられてこなかった。それは一方で「そういうこと」が人間として生活するには左程の重大事ではない、ということも意味しているのかもしれない。実際、そんなことを考えることが生活上、必須なわけはなかろう。人間ではない魑魅魍魎の類にのみ、すがる縁として、それはあるだけなのだ。

その考えを敷衍して今、「詩」というものに私が求めるものがあるとすれば、それは「非在としての詩」かもしれない。どこの誰が書いているかも知らない、そもそも「その詩の存在」すら知らない「詩」こそが。だから「その詩」は誰の目にも触れ得る場所になくてはならない。「ひっそりと」しまい込まれてしまった詩などは、既にして手垢に汚れ過ぎてしまっている。詩として書かれた詩なども同じ臭いにまみれてしまう。

・・・などという狂おしい中に生まれた詩を、私なら笑うだろう。
そんな詩など、詩ではないに違いないから。

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  1. 2008/01/31(木) 00:05:50|
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正反対の同一物の"間"

= 常に受けている影響というものを排除し切ったら、私は多分、透き通った宇宙よりも薄い存在になれるのではないか、と想う。

新年になってMさんが"詩作品"を五作も上梓された。
「塔へ」「その寒気ゆえに」「ねむる日付」「水曜日は君を数える」「下弦の月の、結露する日」

まだ続いて上梓されることを楽しみにしながら、このように連日、詩が掲載されることは今までにないことだ。
とはいえ旧作が掲載されていても私には分からないが、ある種の確信めいたものから新作だと想う。
旧作が掲載されたものだとしても、それは、ここにおいては新作でしかないので大した意味もない。

永く、Mさんは「正反対の同一物」の中を彷徨っている気がしていた。
あまりに多くの色を混ぜ過ぎた漆黒の中、あるいは無数の光色の混濁の中の透明な白。
いずれにしても、誰もが「正反対の同一物」に苛立ちを持ちながら、しかし「大人」になってしまうのではないだろうか。

= 黒だとか白だとか、そんなことを考える世界に嫌気が差しても、そんな世界を作ったのは鏡の中にいる私なのだと考えると、汚辱に満ちた涙に涙する涙もない。

いずれにしても、一連の五作は"今までのMさんの詩"ではなかった。
そう、これらは"一連"の作品で、散りばめられた言葉、漂う雰囲気こそ、まさしくMさんのそれと想えるのに、それは恋文であり、手紙であり、投げかけられた会話であり。

= 忘れた、書くことを忘れてしまった恋文は、実は書くべき相手を失ってしまった、忘れてしまった
  だから書けないと想い込んでしまった
  「読みたい」とせがむ君のために書こうと想った恋文を
  今では想い出すことが出来ない
  そんな僕を君は許してくれるだろうか

< 詩というものは所詮、レトリックなのです >
大意、そのようなことをMさんに聞いたことがある。だとすると、この五作は詩ではないのかも知れないし、詩をレトリックとした自分への反言そのものであるのかも知れない。
< 良い詩があっても、読みがダメです >
この一言で、コメントも感想も書けなくなった私はマズイ。読みを提示することの意味を知ることも感じることも出来なくなってしまう。詩を読むということは作者の意図に沿った感想を書くことではない。詩を読むという詩作的作業に迫れるかという面もある、と気取ってみたい。だけど書けない(苦笑)。
< いつも一緒にいると、その人の言葉が分かるようになるのです >
第三者自分には何を言っているのか、意味しているのか分からない一言一言が分からないからというだけで全てを終えてしまうのなら、言葉を使う作業は道具を使う作業と変わりない。

確かに全ては正反対で、同一物だ。
ただ一色の同一物である全ては禍々しく私達を惹きつける。
しかし私達は少し注意深く感じ取る必要があるのかもしれない。
同一物の間に私がいるし、君もいるし、彼も彼女も、あれもこれもが存在しているということに。

= 暗いのではないのです
  一筋の流れ星の光のためだということなのです
  だから恐れることなど何もなくて
  一筋の流れ星になって、どこまでもいきませう
  そうでなくては哀し過ぎます

全ての色、光が混じり交わって先に、正反対のものが同一物であるかの新しい答えが、世界が見えてくるのかもしれない。
見るものだけが世界を創るのだと、私には想える。

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  1. 2007/01/08(月) 12:55:24|
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なごり雪

もう半年以上前だろうか?テレビで映画「なごり雪」が放映されていて録画して見た。
書き残しておきたいと想いながら何を書きたいのかサッパリ分からず断念、先刻、時間潰しにと見て、どこにカテゴリすればいいのかすら分からぬまま、やはり書き残しておきたいと想う。

映画自体の評価はどうなのかは分からない。どちらかというと個々には不自然に感じる演技や場面、台詞(と、その言い方?)も多くて、正直「失敗作なのかな?」とも想うのだが、その不自然さがあるから、という側面があるように感じるのでややこしい。
検索すると好意的な評価をしているサイトがあり、映画の雰囲気もよく伝えているように想えるものがあった。
参考)
さすらい人さん:映画「なごり雪」
須藤温子『なごり雪』
ちなみに須藤温子という女優は、この映画で初めて知ったが、難しい役どころ、彼女がいてこそという感じもする



一言で言えば『人生で生じる「恋」という時間の不思議さ』について考えさせられた。「恋愛」でも「愛」でもなく「恋」だ。
恋というのは不思議な言葉だと想う。単体の言葉として聞いたとき、あまりに言葉のイメージが希薄で、雰囲気めいたものだけが漂う。
その不思議さというのは、どうも「時間」との関係にあるような気がする。

「恋してる」状態というのは、陳腐な言い方だが、心中「二人の明るい未来」を想いうかべてしまう。しかし、一度、離れてしまうと、その途端に途方もなく「遠い過去」に飛ばされてしまうのだ。
感覚的には「現在」には「恋」は存在していないかのようなもので、それは「恋愛」や「愛」とは隔絶した不在感だ。
だからだろうか?恋というのは夢見る未来がある時と、遠く振り返る時と。その時間の中にしかない、その時間の中にこそあるような気がするのだ。

恋仲と言って良いほどの二人が結婚し、やがて「何故?」と想うほどの破綻を遂げることが往々にしてあるのも、ここに理由がある気がする。
二人の生活が「妥協の産物」でしかないということではないのだ。
現在の中に存在しない恋だから、恋で結ばれた二人は一緒にい続けることが出来ないということなのだ。
だからといって、常に恋は悲劇に終わるということではなく。
実ることを期待する恋が、恋が実った途端に消滅してしまうというものである。ただただ、それだけのことなのだ、きっと・・・。

だから、映画「なごり雪」の中で祐作に恋する雪子も、その雪子に恋する祐作の親友・水田も、正しい恋し方をしたと言えるかもしれない。
恋する祐作が他郷の女性と結婚してしまう雪子。そして水田は祐作に恋していた雪子と結婚したが、雪子の臨終を前にして「雪子は自分に恋することはなかった」という。「良い妻で、好いてはくれていたろうが」と。
水田の恋は実らなかった。いや、実らぬままの恋だから二人は一緒にいられた、と言えるかもしれない。

連れ合いに恋心を抱けない、抱いてもらえないことは決して結婚生活の不幸を意味しない。むしろ逆なのだろう。
他に恋する人をお互いが、あるいはどちらかが持ったとしても、それだけで不幸になることも、不幸を意味することもない。

大切なのは、「恋」という不思議な時間を人は生きることがあるものだということを知り、決して実らぬ恋を、その切なさごと抱えて生きる勇気を持ち続けることではないだろうか。

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  1. 2006/12/15(金) 12:51:50|
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君の名は?

昔、「君の名は」という題名の映画があったと聞く。
おぼろな記憶ではすれ違いの物語だったかと想う。
「名前を知る」ということは、実際、どういう現象なのだろう?
分からない。

先日、書いた散文を見ていて、あることに気付いた。
(参考:  )
「僕」に対置される存在は、ここでは誰にでも、何にでも置き換えることが出来る。
一歩、進めると「僕」すら。

当初はこんなことを意図していたわけではないが、自分で笑ってしまった。
これでは「1」で登場する「僕」も「君」も存在していないことを論証しているかのようだ。
しかし実際、そうなのだろうと想う。
不定定数という言葉を見たことがある。
定数なのに不定とは、これいかに?とおかしくて笑って見ていたが、私達はどうも、不定定数らしい。

もちろん、女性であれば乳房があったり、男性であれば、というような識別基準は存在しているが、私達は識別基準に従ってのみ存在しているものなのだろうか?
ここに関係性を持ち込んで相対的な存在論を弄っても詮無いことで、私達は明確には存在していないと考えた方がシックリくる。

実存主義は、どうも色々な局面で劣勢にあるようだが、必ずと言って良いほど再燃する。
その気持ちはよく分かる気がするのだが、「その気持ち」自体が基盤だとすると、実存主義は自己否定のメビウスを巡っているだけになりかねない。

君の名を問う私は、一体、なにものなのか?
私は、君の名を問う私を問い続けているのかもしれない。

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  1. 2006/12/09(土) 11:03:06|
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神話の始まり

モノの本によると物語、ストーリーというのは既に神話時代に原型があって、後代のものは全て、その類型をなぞっていることになるらしい。
この「類型化」というのは、学問の基礎みたいな「分類学」に似て、誠に研究者らしい作業で、私は大嫌いです。
いや、自分がするなら嫌いではない。
人が類型化するのが大嫌いなのです。
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  1. 2006/10/02(月) 20:34:44|
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あやかし。文字(もんじ)と戯れて。

こうして再度、書き始める前。
一度、書きたい想いを、ただツラツラと書き始めた頃のことである。
数ヶ月で書くことを止めた事がある。
いや、これからすらも、いつ途絶えるかは分からぬが。
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  1. 2006/09/26(火) 23:14:41|
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言葉。喰らう、喰らわれる。

「太宰 vs 三島」ということすら考えたこともない私ですが、
御二人の著作は少しは読んだことがあります。
風さんの記事、そしてコメントで、少し想い起こしたことがあります。
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  1. 2006/09/26(火) 23:06:19|
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「引力」としての詩:謝辞

Mさんの「詩入門」の題材に取り上げて頂いた私は、本当に何も分からない。
元々、「詩」というのは天然由来で書ける(書く)人が書くもので、勉強するものではないと想っていた私は、Mさんの詩(詩のアーカイブ)も拝読したり勉強量・思索・試み諸々に甚く反省し、ので「少しは勉強すべ」と想い「現代詩大系(思潮社)」なども購入して積んである(し、少しは読んだ)。
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  1. 2006/09/22(金) 15:16:10|
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極私的:詩人と坊さん

突然だが、極私的な感想として、詩人と坊さんというのは、どうも同じようなものらしい。詩人が坊さんになったり、坊さんが詩を書いたりというのは、あながち不合理な話ではないのであろう。両者の類似点は「人間のクズである」ということだ。
最近、よく登場して頂く浅田次郎のエッセイによれば、彼が直木賞落選に際して、これほどまでになく憔悴しているときに、某編集者に無理やりペンを握らされ、原稿用紙を叩かれながら「あなたから書くことをとったら骨も残らない」「書けない今、小説に書けなかったことを書きなさい」と言われて泣きながら書いた(「角筈にて」)というのを読むと、これに小説家も加わるかもしれない。
*浅田氏は、その後の直木賞受賞後、その栄光に愧じない作品を書く、とされてはいる
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  1. 2006/09/18(月) 17:37:50|
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自我の境界線

アメリカの電脳映画の影響を受けたアニメを見た。

電脳世界が蔓延し、果ては肉体も機械化され、残るは僅かな脳と自我。
脳は電脳世界に直結し、瞬時に「外部情報」を自らのものとし、
脳の記憶も「電脳世界」の影響を受け、変質する。

自分を認識し得るのは僅かな自我。
それすらも幻影かという狂気の中、存在は宇宙との同質化か無かに帰するのではないかという、
一応のメッセージ。
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  1. 2006/09/13(水) 18:00:41|
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想一葉、兼訪問帳

だから眠ろう、もう少ししたら
明日の計画を書き込んだノートを手に
今日見た、聞いた、触れた
そんな全てが、いつだって重過ぎるから
持ち切れない全てを眠ろう

by 「無意味という意味」 ちょ:まっく

一言お報せ

1.リンクは勝手に頂戴、削除してます。
  ので、リンクはお気分次第にて(^^;
  リンクがご迷惑な場合は、ご一報下さい。

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拙語に託さざらむ恥想ひ、在りて候…

Author:まっく
想:遠い陽光の中に消し忘れられた落書


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