なんて原始的な欲求

まず出発点として、たとえば[ 欲動⇒欲望⇒欲求 ]というシステムが潜在的にでも考えられているとしたら、それは抽象から具体・具象に向かう分析的遡行に過ぎない。

その上で私の理解し得るシステムは、こうだ。
現実的には個々、具体・具象的存在への欲求が絶対的に先行、現出し、それらら認識対象としての要に応じて欲望、欲動へと、いわばカテゴライズされるに過ぎない。むしろ一回性の稚拙で原始的な欲求こそが、全てに先立って現出する。

例えば「ある異性との性交への原始的欲求」は、そのままでは強姦という形でしか満たされることがない、つまり個人内的事象にとどまらざるを得ない。
それは<性交>という欲望(あるいは"性交への欲望")に分類、いわば翻訳されて始めて「合意」の可能性を獲得する。
それら欲望を(社会的に)分析した際に現出するのが<欲動>であるが、それは分析という行為の持つ性質に従って、あたかも罠のように機能し、分析そのものを捕捉してしまうのだ。

ときに事物は、そのような分析的意味に大きく逆らう。
私には、そう想えるし、そうとしか考えられない。

初出:Tumblr(06/07/2015)
2015-07-07 00:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

X JAPANの魅力について聞かせていただけたら…(From Ask.fm)

特に最近は気づくとX(JAPAN)を聴いていることが多いが、私は決してX(JAPAN)の良いファンではない。むしろ私がファンだと言ったら、本当に彼らを好きなファンの方たちに失礼だろうとさえ想う。
「X(JAPAN)のバラッドを中心としたメジャーな数曲を好きなだけです」
そうとしか言えないと感じる。

パフォーマーとしての日本のロック・スターという括りで言えば、最大の先駆者のひとりはジュリー(沢田研二)だろうと想う。ビジュアルや挑発的なダンス(振り付け)、ライブ・パフォーマンス、コミカルな分野等への進出…ジュリーの業績は計り知れない。
マイナーからのメジャー・デビューという意味でならどうなのだろう、私の世代ではBOOWYがほとんど無名の田舎バンドから一躍スターダムに駆け上った。どれだけの泥臭いステップがあったかは知らないが… X(JAPAN)もタケシのお笑い番組から人目に触れるようになったという。
メロディアス、あるいはリズミカルな曲、詩…これに関しても優秀なバンドは数多挙げられるだろう。実際、今、最も過激で挑発的なロックらしさとでもいうものを持続的に感じさせられるのは、月並みなだがラッド(RADWIMPS)だったりする。
ドラマチックなバンドの変遷、歴史も同様に…

それでも私は X(JAPAN)の曲を聴くし聴いている。
まるでドラッグのように危険な香りさえ感じながら。

初出:Tumblr(20150706)
2015-07-06 00:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

蟷螂の夢

初出:Tumblr(26 6月, 2015)

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501

初出:Tumblr(26 6月, 2015)

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ブツカル

初出:Tumblr(24 6月, 2015)

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2015-06-24 00:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

ある薬害記録

初出:Tumblr(24 6月, 2015)

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2015-06-24 00:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

自我と自己

自己、あるいは自我という視点から「愛の回収」や「自己あるいは自我の逃走性」ということを考えていた。

しかし、ふと「自己愛」という用語は聞くけど「自我愛」というのは聞き慣れないし、何気なく「自己と自我」と言い分けてはいても、どちらがどうかということは、あまり意識してないことに気づいたので、少し調べてみた。
想像以上に専門的な話になっているようで、まず簡単に「自我はセルフ・イメージ、自己はユア・イメージ」と言い分けるフレーズを念頭にしてみた。
単純に自我がベースで自己が二の次というわけではないだろうが、最も分かり易い「自己」は「他人を通して見た自分」ということになるようだ。
参考)「自我」と「自己」自我自己
*哲学的には自我=自己意識という面もあるらしく、更にヤヤこしい…

また心理学としても「自我心理学⇒自己心理学」というように「が⇒こ」の五十音順で発展してきたらしい。多分、一般的に「精神分析」と聴いて想い浮かべるフロイト・メインの系譜は「自我心理学」とされ、「自己心理学」ハインツ・コフートが1970年頃から提唱し始めたものだとのこと(日本の「自己心理学」研究者では和田秀樹が著名らしい)。

ここは少し複雑というか混乱しそうになるので深入りしてないが、フロイト・メインの文脈で用いられている「自己」が、「自己心理学的には自我」ということがある気がする。それで「自己」と「自我」って違うよな、的に考えてしまったのだろう。
実際、1923年頃までのフロイトも「自我」を「自己」の意味で使っていたらしい。
「自己愛」というのも面倒な言い方、トートロジーっぽいが、言い得て妙な気もしてきた(しっかし頭イタイな)。
参考引用)Wiki
「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別されている

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2015-05-08 12:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

思想家の資質

本棚の奥から懐かしい本が出てきたのでパラパラと読んでいた。
「批評とポスト・モダン」という柄谷行人の著作だ。

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2015-03-09 00:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

「詩」の不可能性・試論

<引用-始>
詩は近代史から現代詩への経路をかんがえると、長い年月のあいだ詩の表現をつづけることは、すべての現実にたいする不適性と不利得と自己破滅へと書くものを追いこんでゆくようにつくられてきた。
-中略-
詩はたぶん間違った表現なのだということだ。いいかえれば詩は詩を書くものの生の表現と無関係でもなければ関係でもないという仕方で書かれてきている。生の多角性と無関係であり同時に全き関係であるような詩は可能か。この課題をまえにして『転位のための十篇』は終わっている。
<引用-了>
「吉本隆明初期詩集」著:吉本隆明(講談社文芸文庫) P255より

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2014-08-04 23:30 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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星々の冷却(書肆侃侃房)
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【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

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