恋歌

最後の線香花火のあなたの横顔と
微かな燭光の中で消えゆく私の顔と、壁と、擦りガラスと
来るはずの季節を眺め過ぎた風に吹かれ千切れた雲の一切れに
響く歌声が届かないことへの祈りの歌を捧げた誰か
麦畑の中に満ち香る土への
揺れず背高い先に咲く一輪のコスモスの花への

芯まで錆びたナイフで切り裂いた壁紙の中で
広がる暗い宇宙の中に浮かぶ無数の、
全方向に向けられた虚ろな瞳
やはり響く歌声は届かないのだ、という呟きの

全てが全てを含む青いだけの海の、
やはり響かない波音に耳を傾けながら
めくるページを失ったままに手に残る一冊の詩集に
一字さえ書くことの出来ない鉛筆をテーブルに眺め
きっと、あなたである足音を聞き分けることが出来なくても
私は吐息を、青く、赤く、そして透明にシャボンに包み
一つ一つを決して忘れずに
終わりを迎えないキスをして目を閉じる
終わりを忘れたキスをして目を閉じる
2006-12-17 20:21 : 落陽 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

なごり雪

もう半年以上前だろうか?テレビで映画「なごり雪」が放映されていて録画して見た。
書き残しておきたいと想いながら何を書きたいのかサッパリ分からず断念、先刻、時間潰しにと見て、どこにカテゴリすればいいのかすら分からぬまま、やはり書き残しておきたいと想う。

映画自体の評価はどうなのかは分からない。どちらかというと個々には不自然に感じる演技や場面、台詞(と、その言い方?)も多くて、正直「失敗作なのかな?」とも想うのだが、その不自然さがあるから、という側面があるように感じるのでややこしい。
検索すると好意的な評価をしているサイトがあり、映画の雰囲気もよく伝えているように想えるものがあった。
参考)
さすらい人さん:映画「なごり雪」
須藤温子『なごり雪』
ちなみに須藤温子という女優は、この映画で初めて知ったが、難しい役どころ、彼女がいてこそという感じもする



一言で言えば『人生で生じる「恋」という時間の不思議さ』について考えさせられた。「恋愛」でも「愛」でもなく「恋」だ。
恋というのは不思議な言葉だと想う。単体の言葉として聞いたとき、あまりに言葉のイメージが希薄で、雰囲気めいたものだけが漂う。
その不思議さというのは、どうも「時間」との関係にあるような気がする。

「恋してる」状態というのは、陳腐な言い方だが、心中「二人の明るい未来」を想いうかべてしまう。しかし、一度、離れてしまうと、その途端に途方もなく「遠い過去」に飛ばされてしまうのだ。
感覚的には「現在」には「恋」は存在していないかのようなもので、それは「恋愛」や「愛」とは隔絶した不在感だ。
だからだろうか?恋というのは夢見る未来がある時と、遠く振り返る時と。その時間の中にしかない、その時間の中にこそあるような気がするのだ。

恋仲と言って良いほどの二人が結婚し、やがて「何故?」と想うほどの破綻を遂げることが往々にしてあるのも、ここに理由がある気がする。
二人の生活が「妥協の産物」でしかないということではないのだ。
現在の中に存在しない恋だから、恋で結ばれた二人は一緒にい続けることが出来ないということなのだ。
だからといって、常に恋は悲劇に終わるということではなく。
実ることを期待する恋が、恋が実った途端に消滅してしまうというものである。ただただ、それだけのことなのだ、きっと・・・。

だから、映画「なごり雪」の中で祐作に恋する雪子も、その雪子に恋する祐作の親友・水田も、正しい恋し方をしたと言えるかもしれない。
恋する祐作が他郷の女性と結婚してしまう雪子。そして水田は祐作に恋していた雪子と結婚したが、雪子の臨終を前にして「雪子は自分に恋することはなかった」という。「良い妻で、好いてはくれていたろうが」と。
水田の恋は実らなかった。いや、実らぬままの恋だから二人は一緒にいられた、と言えるかもしれない。

連れ合いに恋心を抱けない、抱いてもらえないことは決して結婚生活の不幸を意味しない。むしろ逆なのだろう。
他に恋する人をお互いが、あるいはどちらかが持ったとしても、それだけで不幸になることも、不幸を意味することもない。

大切なのは、「恋」という不思議な時間を人は生きることがあるものだということを知り、決して実らぬ恋を、その切なさごと抱えて生きる勇気を持ち続けることではないだろうか。
2006-12-15 12:51 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

雨降り

冷たさを増していく雨の中で傘を閉じ、目蓋を閉じ、君への想いを閉じる
きっと今もどこかの空は青々としているに違いない
昨日の空は蒼かった

やがて来るはずの涙は遡る時間の中に散り、
光を反射しない屋根の上で跳ねる小鳥と向こうに湧き上がる雲と

走り行く車の中を見ても誰もいないが、きっと私は覗いてしまう

雨だまりの中で一つになった雨滴は雨滴ではなく、
泥を飲んで明日には子供らに踏み濁らされ
陽が照れば、地が吸えば、きっと乾いてしまう
なくなってしまう

愛らしい赤の子供傘が揺れていく
曇り空の下、鉛色の空気を裂いて
愛らしい赤の子供傘が揺れていく
2006-12-09 11:14 : 落陽 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :

君の名は?

昔、「君の名は」という題名の映画があったと聞く。
おぼろな記憶ではすれ違いの物語だったかと想う。
「名前を知る」ということは、実際、どういう現象なのだろう?
分からない。

先日、書いた散文を見ていて、あることに気付いた。
(参考:  )
「僕」に対置される存在は、ここでは誰にでも、何にでも置き換えることが出来る。
一歩、進めると「僕」すら。

当初はこんなことを意図していたわけではないが、自分で笑ってしまった。
これでは「1」で登場する「僕」も「君」も存在していないことを論証しているかのようだ。
しかし実際、そうなのだろうと想う。
不定定数という言葉を見たことがある。
定数なのに不定とは、これいかに?とおかしくて笑って見ていたが、私達はどうも、不定定数らしい。

もちろん、女性であれば乳房があったり、男性であれば、というような識別基準は存在しているが、私達は識別基準に従ってのみ存在しているものなのだろうか?
ここに関係性を持ち込んで相対的な存在論を弄っても詮無いことで、私達は明確には存在していないと考えた方がシックリくる。

実存主義は、どうも色々な局面で劣勢にあるようだが、必ずと言って良いほど再燃する。
その気持ちはよく分かる気がするのだが、「その気持ち」自体が基盤だとすると、実存主義は自己否定のメビウスを巡っているだけになりかねない。

君の名を問う私は、一体、なにものなのか?
私は、君の名を問う私を問い続けているのかもしれない。
2006-12-09 11:03 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

続 ベンチのあった場所


むかし、父とすわったベンチのあった場所にうずくまり
公園沿いの家々の窓からのホンノリの明るさを

子どもらが駆け続ける公園で
電車が訪れるたびに大きくなっていく雑踏を想い
その中にいたはずの父は帰ってはこない

濃紺のグラデーションと眩しい地平線の喘ぐオレンジと
見上げた空には一つだけの星があればいい
懐かしい歌が一つだけ想い出せればいい

こんなに遠くまで来てしまった僕と
きっと行ってしまった父との間には何もない夕暮と
静かなだけになってしまった公園も、いつかは消えるだろう

お互いに光速で遠ざかっていく世界の中で
僕らは出会うことさえなく別れたまま
記憶だけを頼りに想い出す父の笑顔に言い忘れた言葉を握りしめ

むかし、父とすわったベンチのあった場所から立ち上がり


むかし、母とすわったベンチのあった場所にうずくまり
公園沿いの家々の窓からのホンノリの明るさを

子どもらが駆け続ける公園で
電車が訪れるたびに大きくなっていく雑踏を想い
その中にいたはずの母は帰ってはこない

濃紺のグラデーションと眩しい地平線の喘ぐオレンジと
見上げた空には一つだけの星があればいい
懐かしい歌が一つだけ想い出せればいい

こんなに遠くまで来てしまった僕と
きっと行ってしまった母との間には何もない夕暮と
静かなだけになってしまった公園も、いつかは消えるだろう

お互いに光速で遠ざかっていく世界の中で
僕らは出会うことさえなく別れたまま
記憶だけを頼りに想い出す母の笑顔に言い忘れた言葉を握りしめ

むかし、母とすわったベンチのあった場所から立ち上がり


むかし、息子とすわったベンチのあった場所にうずくまり
公園沿いの家々の窓からのホンノリの明るさを

子どもらが駆け続ける公園で
電車が訪れるたびに大きくなっていく雑踏を想い
その中にいたはずの息子は帰ってはこない

濃紺のグラデーションと眩しい地平線の喘ぐオレンジと
見上げた空には一つだけの星があればいい
懐かしい歌が一つだけ想い出せればいい

こんなに遠くまで来てしまった僕と
きっと行ってしまった息子との間には何もない夕暮と
静かなだけになってしまった公園も、いつかは消えるだろう

お互いに光速で遠ざかっていく世界の中で
僕らは出会うことさえなく別れたまま
記憶だけを頼りに想い出す息子の笑顔に言い忘れた言葉を握りしめ

むかし、息子とすわったベンチのあった場所から立ち上がり

Ⅴ,Ⅵ,Ⅶ…


むかし、私とすわったベンチのあった場所にうずくまり
公園沿いの家々の窓からのホンノリの明るさを

子どもらが駆け続ける公園で
電車が訪れるたびに大きくなっていく雑踏を想い
その中にいたはずの私は帰ってはこない

濃紺のグラデーションと眩しい地平線の喘ぐオレンジと
見上げた空には一つだけの星があればいい
懐かしい歌が一つだけ想い出せればいい

こんなに遠くまで来てしまった僕と
きっと行ってしまった私との間には何もない夕暮と
静かなだけになってしまった公園も、いつかは消えるだろう

お互いに光速で遠ざかっていく世界の中で
僕らは出会うことさえなく別れたまま
記憶だけを頼りに想い出す私の笑顔に言い忘れた言葉を握りしめ

むかし、私とすわったベンチのあった場所から立ち上がり
2006-12-09 10:14 : 落陽 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

ベンチのあった場所

むかし、君とすわったベンチのあった場所にうずくまり
公園沿いの家々の窓からのホンノリの明るさを

子どもらが駆け続ける公園で
電車が訪れるたびに大きくなっていく雑踏を想い
その中にいたはずの君は帰ってはこない

濃紺のグラデーションと眩しい地平線の喘ぐオレンジと
見上げた空には一つだけの星があればいい
懐かしい歌が一つだけ想い出せればいい

こんなに遠くまで来てしまった僕と
きっと行ってしまった君との間には何もない夕暮と
静かなだけになってしまった公園も、いつかは消えるだろう

お互いに光速で遠ざかっていく世界の中で
僕らは出会うことさえなく別れたまま
記憶だけを頼りに想い出す君の笑顔に言い忘れた言葉を握りしめ

むかし、君とすわったベンチのあった場所から立ち上がり
2006-12-07 17:54 : 落陽 : コメント : 0 : トラックバック : 1 :

白猫の足と

昨日は多忙の中の軽いものかと想って自分の記事に集中してしまったが、Mさんのギックリ腰が大層、悪いようだ。愛読者の多いMさんのブログが痛々しく見える。「ことば」が痛みを増幅するというようなことは、実際、ある。
陽が昇っても寒さが変わらない窓越しの駐車場に一台分の空きがあり、そこは女房が車を出した場所なのだが、マフラーから出た蒸気で僅かな水溜りが出来た。晴れているのだか曇っているのだか分からない陽光の中で、その白猫は水を啜っていた。成猫だが毛並みが悪く、ところどころにコビリついた汚れが目立つ白猫が、水を啜っていた。
ゆっくりと差し出されては引っ込み、差し出されては引っ込みする舌の動きが収まると、白猫はよろばい歩き始め、近くに停めてある自転車の陰に隠れた。右の後足を地に付けることなく。何ゆえかは分からないが怪我をしたか骨を折ってしまったのか。痛々しい姿にも関わらず、白猫の目は、ただただ目に映るものを見ているだけで、私もその一つであったのだろうか、分からない。
コメントしたくても、しようがなかったMさんのギックリ腰が脳裏を掠めた。うずくまる白猫を見ながら、きっとコメントすべきではないのだろうとボンヤリと想った。
特に民間療法家の中には、患者の痛みを自分の痛みとして感じてしまうことがままある。本当に同調しているのかどうかは医学的には怪しいともされるグレー・ゾーン現象だが、西洋医学の医師にも同タイプの方が少なからずいる。身体的なことですらそうなのだから、精神的なことならば言うまでもない。他人の痛みは、本来、自分の痛みとしてしか存在しないのだ。病や故障の類は、そういう共有物として存在する。
ブログからするとMさんがギックリ腰になった二日後、知らないままの私は稽古で腰を強打して翌日まで残る鈍痛の中にいた。全く、無関係な私的なことである。
腰を痛めると酷く不自由するものだ。しかし、不治のものばかりではない。
あの白猫の片足が癒える事はあるのだろうか?と、フと想う。
人の痛みは癒える為にこそ、あるのだと想いたい。
全ての傷病が癒える奇蹟の世界などは妄想だとしても、痛みの癒える日は来ると信じたい。
痛みの中に沈潜しているばかりでは辛過ぎるから。
痛みは癒えるために、生きるために出来た感覚だと聞く。
2006-12-05 10:46 : 消去一葉 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :

水滴の中を往く

君の瞳の少し茶がかった黒目を過ぎて、
靴音は柔らかく乾いた音を立てながら土に塗れていく。
透き通った土に塗れていく。

しゃがれた枯葉の透き通った中を往くと空はない。
空のない枯葉のしゃがれた中を往く。
風に吹かれた帽子は背を越えて飛び去っていくが、
少しすると、またスルリと頭に収まり、しゃがれた中を往く。

見えないものに真実などないのに、
透き通った枯葉が舞う中を、
透き通った人々の通り過ぎる中を
透き通った君の傍らを

そうして歩き続けていくと、きっと僕も透き通るに違いない。
そう思った僕の心臓は赤く、トクントクンと脈打ち、
ああ、僕は透き通ることが出来ない。
流す涙さえ濁って落ち、透き通った土に吸われていく。
吸われていく先が見えないままに消えていく。
僕から遠ざかっていく。

同じ時間を君の涙が流れるとき、
空が蒼さを取り戻し、僕は透き通るが、
僕の涙は誰にも見ることが出来ない。
僕は常に君と、あの夥しさと同じ時間を歩いている。

蜘蛛の糸のように細く流れ落ちる水流の途切れるまで、
僕は歩き続けることを止めることが出来ず
2006-12-04 13:17 : 落陽 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :

問いに対する答えはない

「あの、一度だけ鳴って切れる電話、あれ、なんなのかしらねぇ?」
少し出るまでに間を置いた電話の後に、ポツリ母が誰に問うともなしに呟く。私が知るわけはないのだが、少し格好よく言えば広告宣伝といえるのだろうか。
このワン切り、単なる詐欺の準備行為と言えばそれまでだが、問われたら答えずにいられない人の心理を巧みに利用しているとも言えそうだ。冷静に考えれば誰のものとも知らぬ番号にかけ返す必要など皆無だし、もし相手方が自分に用事のある人間なら、もう一度、電話してくるだろうと気長に待っても良いわけだし、いずれにしてもワン切りにかけ返す義理も道理も見当たらない。問われたら答えずにいられない、という習性が、どうやら人にはあるらしい。
では、問いというのは必ず答えと対の存在なのかというと、それは強迫観念でしかないのではなかろうか。逆に言った場合、答えは問いを必要とするのだろうか、ということも考えてみたいものだが、全ての存在はニュートラルであれば問いのない答えそのもの、という観念論は成り立ちそうだ。とすると「卵が、鶏が」の議論とは同一には出来ず、明確に「問い」は「答え」を前提に先行したと言い得るのかもしれない。もし答えの実体が前述したものであるとすれば、なんともバカらしいだけの行為こそが問いであるということになる。
きっと、そういうことではないのだ。問いは元々、私達からナニカを奪おう掠めようという行為なのだろう。そして人は奪われること掠められることに慣れるどころか快感を覚えるにまで至る。奪われ掠められることを求める人さえ出る。その要求に、欲求に応えない姿勢を求める一つが禅宗、特に臨済宗の考えるところの一つと言えるかもしれない。所謂、公案ほど人をコバカにするようなものはないが、バカらしければ相手にしなければ良いところ、相手にしてしまう私がバカ本体とでも言いたいのだろうか。
問いなど、この世には実は存在していないのではなかろうか。そして答えなどもなく、いや答えにだけは満ち満ちているとも言えるし、そんなものは全くないのだ、とも言えるもので、結局、問答自体が仮想なのだろう。
懸想なら実ることもあるかもしれないが、どうも問答が実ることはないのではないかという気がする。
2006-12-04 12:55 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

露と霜

父とゴルフ仲間を乗せようとした車には露が注がれていた。霜になりきれずに露と化したのか、知らぬ間に霜から露に変わったのかは分からない。いつも使う路線とは違う送り駅の道すがらには自宅直近の住宅街から一変した畑地が広がり、一面はほの白く霜を受けていた。冬が近い、いや、もう冬なのだ。
二人を下ろした帰り道は既に通勤車、通学車、貨物車その他色々な車で渋滞し、高度成長期の象徴であるかのような大きなマンションを背にポツリポツリと残るあばら家が目に入る。平屋の一間、多くて二間あるかのそれは、本当に小さく、しかし異様なしぶとさを思い出させる。近年では見ることの少ない建物は、江戸時代をさらに遡る歴史の残滓であるが、私が小学生の頃までの友人の居住空間でもあった。
一間に家族五人が暮らす。年頃のお姉さん、同級生の男の子、弟、そして両親と。子供心に、理由の分からない猥雑感を覚えた記憶がある。もしかしたら剥き出しの牡牝の臭いを感じ取っていたのかもしれないが、剥き出しの牡牝の臭いが猥雑に感じるほど私が幼稚であったということでもあるのだろう。どういう状況にあったとしても、たとえそれが、お互いに何処にいるか分からない大豪邸に住んでいたとて、生きている人間のすることなど大差あるようには思えないのだが不思議なものだ。
そんなツラツラを思いながら、過日に見たアダルト動画を思い出した。ホテルの一室で男根を咥える若い女性。その先には未だ左程には荒れていないシーツが広がっている。やがて大写しになる女性の口元、そしてカメラが引き、先のシーツの向こうに紫にむくんだように見えるボウッとした異形の女性の顔。エロ画像に映った亡霊だという。霊学なるものがあるとすれば、土縛霊という分類になるのだろうか、それとも男女の営みの愉悦を忘れられない色情霊とでも言うのだろうか。
遠からず誰もが彼岸に赴くことに変わりはない。此岸で良いことばかりがあるわけでもない。勿論、悪いことばかりがあるわけでもなかろう。と、こちらは希望というか、そうあって欲しいものだというに過ぎないが。せっかくの新世界よりも現世とは芳しいものなのだろうか。男女の営みにまで顔を出す姿は、それが実際は作り物であれ中々に言い難い「生」のありようを見せるかのようだ。
帰路、太陽はソコソコに高くなっていて、霜は消え、畑地はいつもの土色に戻っていた。自転車に乗った早出の学生が、ふざけ笑いながら車脇を過ぎていく。車を戻した駐車場に並ぶ車が、まだ露を残して暖かみを増した陽の光の中でキラキラと輝いていた。
女房と子供が眠げな目をしたまま飯を食い、テレビに見入っている。
もう一度、体を横たえた布団は既に冷たく、寝床から出るには、いつもより少し早過ぎた朝だった。
2006-12-04 12:32 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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拝啓




Author mak From "空白"

想一葉、兼訪問帳

星々の冷却(書肆侃侃房)
渓谷0年(オンライン版)
Both by mさん

【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

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