ヘビイチゴ

 梅雨迎えのニュースがあってもおかしくない五月の終わり、申し訳程度の緑が泳ぐだけの黄褪せた畑地を横目に自転車に乗り行くと、住人がいるのかすら怪しげな雰囲気の郵政関係の宿舎脇の道に出る。子供の遊ぶ姿すら見たことのないフェンスの網目向こうはいつでも背の高い草が茂り、一階の部屋など出窓の直下まで草に覆われている。

 それでも稀に、その日がそうであったが、除草剤が撒かれるのであろう。繁茂していた草や野草の悉くが黄に萎れ、晴れの日が続いた後には乾いてヒビの入った地面の皮が捲り上がる。
 かといって、その日も枯草の向こうの部屋には人のいる様子はなく、ただ目に入ったのは柔らかな産毛に覆われた小さく濃い緑の葉の中に、それでも埋もれずに数知れず生っているヘビイチゴ---それが正しい名称なのかすら知らないのだが、ただ、あまりに毒々しく赤く小さなその実は、我々子供達にとって十二分に正しく通じるもので、私はヘビがその実を食べる様子を想像して疑うこともなかった。
 果たしてヘビがおぞましさの象徴として使っていること自体、ヘビを捕らえては振り回していた子供達の行為からすれば少しくおかしなものであるが、大人とて、その辺りの事情はそうは大きく変わらないものであるかも知れぬ。そこにある世界を小ばかにしたいというささやかな野心は、何に故するのであろう。

 数分も止まってはいなかっただろうが、広大な黄一色と深い緑、その中に散らばる赤い点。それらに目を凝らしながら訃報を受けた知人のことを想い出していた。知人というのは失礼な話で、親子二代に亘り仲人を引き受けて頂いたのだから恩人というべきかもしれぬ。
 年始の挨拶のときには、耳にしていた多少の病気や故障の影も薄く安堵していたのだが、寿命ばかりは計り難い。息苦しさを訴えられてから数時間も経たずして会話もままならぬ状態となり、数日で不帰の人となったという。
 幼少の頃の記憶は不自然に鮮やかなものである。どう数えても、しょっちゅう会う機会があったはずもないのに、大変に可愛がられた記憶だけが残っている。子供というのは可愛がられた記憶を優先するものという事なのかもしれない。

 大して暑くもないのに眩しい日光の下にいると、なにか自分がこの世にいるという感触が薄れ、気狂いしていると言われても納得出来る。いや、実はお前など存在していないのだ、と言われても「ああ、そうなんですか」と答えてしまいそうな、そんな気持ちになる。
 昼時であれば太陽はやはり高く頭上から照らし、ほとんど影を落とすこともない。自分の影が見えない時間。

 宿舎脇を抜けるとスーパーからの出入りの人込みに出る。食べ物やら雑貨を大きな袋に入れて、よろめき進む自転車と、路地中の十字路に多過ぎる車と人波を避け、もう少し自転車に乗れば家に着く。
 そこでもやはり、大して暑くもなく、太陽の光だけが真上から強く注いでいた。
2007-05-29 19:34 : 消去一葉 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :
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