「女王の教室」は成立したのか?

ここ数日来、昔に戻ったように想い過ぎる問いがある。
「ひとは、どうして、ひとを殺すのだろう?」
私は、今まで自分が納得し得る、いかなる答えも得ていない。
このことは逆に、
「ひとは、ひとを殺してはいけない。」
ということに対して、納得出来る根拠が皆目ない、ということでもある。

私自身もそうだが、どこまでで区切れるのかは分からないけれど、
私達は「ひとを殺してはいけない」と「なんとなく」想っている。
それに通ずる一つでもある「ひとを(少なくとも無闇に)傷付けてはいけない」という一事も、
教育の名の元に非常に苦戦を強いられる。

「自分が傷付けられたら(殺められたら)いやでしょう。
 だから、ひと(他者)を傷付けて(殺めて)はいけない。」
これは仏教というより(実在の)釈尊の言葉であり、
「女王の教室」も結局は同じことを言っているな、と想ったのだが、
私の知ってる限りの「限界」である。

子供の感性は大人のそれとは異なる。
上に書いたようなことを言われて「はい、そうですね。」と納得出来る方が不思議と覚悟した方が良いかもしれぬ。
下手をして受け取られると、良くて完全なるベジタリアンか拒食症の子供を作るだけだ。

「女王の教室」では、結局、「その理解」に至らない生徒に、
「自分の死」を感じさせることで生徒も納得した、ということになっているが、
これは、ほとんどの場合、私は有り得ないと想う。
殺される立場では、殺す立場は理解し得ない。
あのシーンでは、子供は「自分の死」に怯えただけで、
「(他)人の死」に怯えたわけではない。

9/11のインタビューに「とにかく恐ろしい」と答えた坂本龍一は、
他人の死の中に自分の死を見ただけで、
そこから生まれるのはヒューマニズムなどではない。
単なる生存の危機感だ。

しかし私達は、自分の親しい人の死には、怯えることが出来る。
むしろ、その「親しさ」を思い遣ることの広がりを見せた方が良いのかもしれない。
「女王の教室」でも「イメージできる?」というフレーズで、
そういうメッセージを暗示していた、と見ることも出来る。

それでも人は毎日のように殺される。
それが欲によってか怒りによってか怨嗟によってかを問わず、
殺人事件は毎日のように起きる。
この手の殺人事件は「人だから」起きるものだと言えよう。
犬が欲にかられて他の犬を噛み殺した、というのは滅多にない。

とはいえ、動物界に、そういう現象が皆無か?というと、そうでもないらしい。
猿くらいになってくると「復讐」までやってのける。
が、ほとんどは「直」死に至るものではない。
復讐に刃物を持ち出してメッタ刺しなどというのは人間くらいではないのか?

そんなこと位は、大抵の人が考えていることだ。
だから、私を含む、そういう大抵の人は、こんなことは言えない。
「だって、人間だもの。」

いかなる人を殺すことよりも自らの死を選ぶ人がどれだけいるか?
殺人は、人間の自我に巧妙に仕組まれた行為、としか考えられない。
誰が何故、どのように仕組んでいるのかは分からないが。

「他人という自分」が「自分」を殺すことに対して、私達は本当の異議を突きつけることが出来るだろうか?

私達「人間」の「間」には、まだまだ途方もない距離を感じずにいられない。
その、あまりの遠さに私は涙したい想いで佇むことしか出来ていない。

2006-08-16 23:24 : 消去一葉 : コメント : 4 : トラックバック : 1 :
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なぜ人を殺してはいけないのか◆入門編[前]
いや~,7月中どころか,お盆を過ぎてようやくのUpになってしまいました。2月16日にUpしたなぜ人を殺してはいけないのか,挑発的な表現ながら自分ではとても穏当で常識的な話を書いたつもりだったのですがこれに対して批判コメント&誹謗ブログ記事をいただきまして冒頭の
2006-08-20 : 15:27 : D.D.のたわごと
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そうですね。「死」というものが誰にもわかっていない、というか、他者の死を経験することしかできないというのが「死」の本質ですね。だから自分の死におびえるのは、他者の死におびえることではないかとも思いましたが、殺す側と殺される側というのは、まっくさんが言われるように対称ではないと思いました。
松尾スズキ『ぬるーい地獄の歩き方』という本に、神戸の酒鬼薔薇事件に関する対談があって、子どもの頃からずっと徹底的にいじめられっこだったという俳優が登場します。印象的な俳優で、その俳優は、校門に首をさらされた土師淳くんに感情移入します。知恵遅れだった淳君は11年間、なんのために生きていたんだろう、そう思うだけで眠れなかった、と彼は言います。淳くんに感情移入する人をぼくは初めて見ました。大槻ケンジは、酒鬼薔薇聖人に感情移入して、「オレの代わりにやった」と発言しました。発言しなくても同じように思った連中はいるだろうと思いましたし、「殺す側」の絶望感は理解できる感じがありました。ところが「殺される側」に感情移入する絶望感には驚かされました。
「もしぼくが神戸にいたら、ぼくが淳君の代わりだった。たまたま神戸にいなかっただけなんだ!」
驚愕しました。徹底的な「いじめられっこ」として育った感受性に恐怖感さえ覚えました。
2006-08-17 00:48 : M URL : 編集
理由なき殺人者たち
Mさん、こんにちは。
その俳優さんの発言、感受性は非常に重いですね。
あの事件でも、酒鬼薔薇聖人、淳君の親族、同級(窓)生・・・と関心は広がっていきましたが、「淳君」の側に、どれだけの人が立ち得たか?他のほとんどの事件でも同じです。
どんなに異常な事件でも「殺す側」の心理は分析もされ、理解・感情移入を得られてしまうのに「殺される側」は文字通り抹殺されてしまう。そこに「殺人の口実」など、ないような気がするのです。むしろ「殺す側」に立って、まるで殺人者を量産してるだけではないか?と。
そこに感じるのは、横一線に並んだ無数の殺人者たちの顔、です。私達のほとんどは「殺す側」に立っていて、せめて「そもそも殺人自体が享楽、快楽なのだ」という視点を持つことが必要なのではないか、と感じます。
2006-08-17 11:33 : まっく URL : 編集
死について考察
私は現在うつ病療養中の身です。だからこと見てきた死の淵、暗闇があります。
自分がこの世界に存在してはいけない、生まれてきてはいけなかったんだ、いなくなりたい。
そんな焦燥感に駆られ狂いそうになることがままありました。でも私は人を殺したいとは思わない、それくらいなら自分を殺すだろう、きっと。実際未遂が何度かありましたが、不思議なことに死にたいのか生きたいのか分からず衝動的に理性(自分)がなくなって行っているように思います。多分ですが、育ってきた環境ストレスが大きいのだと思います。幼い頃からのトラウマが今も私を悩ませます。私の場合は感情の負荷が内側に向くのですが、逆にそれが外に向く人が最近世間を賑わせている人ではないかと思えてなりません。どっちもどっちなのでしょう。きっと抱えた闇は同質の様に思うのです。

話は急に変わりますがブログを引っ越しました。このコメントは新しいブログのURLで書いています。今後ともよろしくお願いします。
2006-08-17 17:19 : ajisai URL : 編集
書けません
ajisaiさん、こんにちは(^^)
今までの経験上、今回のコメントにはお返事が書けません。
でも、ajisaiさんのコメントは、勿論、拝見させて頂いてます。
それが、私なりの誠意であること、ご理解頂ければ幸甚です。

p.s.
新ブログ、立ち上げお疲れ様です。
こちらこそ、宜しくお願い致します(^^)
2006-08-17 17:40 : まっく URL : 編集
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