<ある日>の肖像Ⅳ(紫煙の中で)

アダルト作品の女優は画面の中でだけ抱かれて共有物となり、アダルト作品の男優は画面の中でだけ抱かれて私物となる。その昔、日本の女は名前を残さなかった。名前を奪われることで永遠の共有物となった。「男は消耗品である」という言を残した作家がいたが、むしろ男は単なる私物なのである。かくて女は拡散的自由運動を指向し、男は収束的拘束運動を指向するものとして分類される。
石貨や装飾品は私物であるが、貨幣や金は共有物である。私物たる石貨類が共有物たる貨幣を装うことで資本が生じるのであるが、資本は第三の性(女性としての男性)ではなく、第三の存在形態を示すのだ。そして、もう一つ指摘し得ることは外面性が内面性を装うのではなく、内面性こそが外面性を装うものであるということだ。その消耗するだに生産され続ける精子は、互いに交わることなく(分裂ではなく)分割され続け、死の極限に迫ろうとするが、決して死に至ることはない。生まれる前、未生の存在として死が許されざるものとして運命付けられているのである。
資本も同じで、共有物を装っても本来の私物性の帰結として分裂、つまり生誕にすら至らず、ただ分割され続ける存在として死を夢想する未生物にしか過ぎないままなのである。その運動は共有物を装うことで加速する分裂の只中にいるかのように見せるが、その露出した内面性にも関わらず、頑として露呈しようとしない外面性たる私物としての分割を加速しながら希求する死から遠ざかって行くばかりである。
女は共有物として生まれて共有物として永久に生き続けるのに対し、男は私物としてプラナリアのように分割し続けるだけで生まれも死ぬことも出来ないのである。女性としての男性は分裂への希求心だけは植え付けられながらも、未生のまま分割し続ける運動そのものの中にいる。資本主義社会の成熟とゲイの社会認知の成熟が軌を一にするのは偶然などではない。
一方、男性としての女性は、私物を装う共有物であるが、永遠の生(達)から生誕に至る運動として定義される。収束的拘束を指向する拡散的自由運動をする存在である。ただ一つ死を運命付けられながらも永遠に分裂しながら生き続ける第四の存在形態(減耗する資本)である。しかし減耗する資本は、その存在認定を社会的に十分に得ることが出来ておらず、ために分割し続ける資本に寄生する形態に仮宿(時に安住)しているに過ぎない。
およそ経済運動が性的運動と、経済的存在が性的存在と同じであることは至極、当然のことであるが、第四の存在形態が認められ得ていないために、二つを同一のものとして語ることを酷く困難にしているように想われる。
このことは又、開くことを放棄する窓(あるいはドア)として、言葉という"機会"が私たちの口から、手指から、全てから流れ出るままになっていることと同じでもある。決して開かれることがないからこそ流れ出るものだけが許されているに過ぎないのだ。ここでは言語運動が性的運動と、更には経済的運動と流れを一にする傾向が、やはり見られるのだが、第四の存在形態の探求抜きに語ることしか、未だ許されていないかのような様相を呈しているのである。
2014-05-23 00:00 : 想葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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