<ある日>の肖像Ⅴ(紫煙の中に)

詩あるいは詩的なものとは無理解の存在指標であるが、存在とは濃淡の差異あるいは度合として理解されるもので、往々にして相対としての世界理解の礎を成すものである。別れは愛を追認するのではなく確認する行為として理解された時点で「資本主義と分裂症」の分裂症的存在に相反する行為として理解され、世界理解の礎に寄与する一つに過ぎなくなる。
イヌは飼主を持った時に犬となるが、猫は生まれながらにして猫でしかなく、彼らには飼われないという概念は存在しない。だから野犬狩りはあっても野猫狩りは、ついぞ実施されないままである。犬は犬でなくなった時、飼主に牙向く存在として変貌、あるいは成長を遂げるが、いつまで経っても猫は猫でしかないのだ。敢えて言えば、ちゃっかりと新世界で他の人の飼い猫として自由を振る舞うだけの偽りの気儘さしか身に付けることが出来ないのだ。そして、その憂いこそが猫を集会させるのである(イヌは群れを成す)。
ランボオはイヌとして牙剥こうと試みたが、イヌであるにはどうしたら良いのかを知らぬまま猫として放浪し、あるいは商人として生きた。その意味で彼は結局、脅威にはならなかったので、ドゥルーズ=ガタリも索引に見る限り、一箇所でしか彼を取り上げていない。あれ程の早期に鋭く欧州の凋落を見抜いたにも関わらず、である。
あるいはランボオは、自らの作品の寿命を察していたのかもしれない。貪欲な認識は無理解の対象を漁っては、なんとか濃淡を通じて相対に位置付け、やがて己の物とする。詩あるいは詩的なものが、詩あるいは詩的なものであり続けるには、その実、簡単な事で書き続ける、しかも理解を超える速さで書き続けるしかないのだ。書き続ける行為の加速の果てこそが、書かないことなのである。
瀧口修三は、そういった意味で、かなりの射程範囲で思惑通りの結果を得たように想われる。詩的実験という巧妙な作品集は、一つの奇蹟とも言えよう。更に荒地の詩人たちは、永遠の無理解に旅立つ方法論そのものをその手に収めるという矛盾的飛躍を自らに課したように想える。その意味では瀧口修三と荒地の詩人たちは同志であり、瀧口修三は協力者たちを得て作品として結実させることが出来、荒地の詩人たちが相集ったのは、野犬集団に倣った必然でもあった。
イヌとして吠え続けることは、それを望む者にとって、喉が裂かれても微塵も構うことなどではないのであろう。吠え続けることでイヌであり続け、つまり未生の死に在り続けられるからである。その速度は丁度、世界を八周しても飽き足らない未知のものであって、自らの吠える声を遠く追い抜き続ける、そのようなものであるようだ。
2014-05-23 00:00 : 想葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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