水曜日のヴェーサーリー

週中の水曜日は、大抵が毎週、懊悩の極にある日である。

習い事・・・柔術の稽古が土・日だけなので、禁断症状が出るのだ。
柔術といっても、実際は空手も同じだと想うけれど総合武術。
別に投げ極めだけが全てではない、どころか、必要に応じてなんでもするのが当たり前だ。
空手も、突き蹴りだけに拘る理由は、少なくとも古来にはなかったはずだ。

は、置いておいて、禁断症状が出るくらい大好きな武術(武道・格闘技もだけど)だが、
私の場合は「人を傷付ける」こと自体は格段に苦手というか好めない。
なのに、やはり手を取りつつの稽古が苦しくも、また痛くもあるが格別に楽しい。
こういった技術の奥深さは、どこまで続いているのだろう、と想う。

で、一方では東洋医学を中心とした民間療法も大好きだったりして、
昔は自分で自分の嗜好が全く理解出来なかった。
一方は人を殺傷することを追及する技術、一方は人を救命介助する技術。
両極なのだ。
お互いが技術・知識的に通じるものがある、ということは分かる。
だが、ナニカ腑に落ちない。

さらには、哲学やら仏教も好きで、これまた不可解な嗜好だ、と想っていた。
が、最近、ブログを書くようになって、また色々な体験も深まって、
言葉にするなら「命」のことに興味があるのかな?と想った。
なぜかは分からない。

で、仏教なのだけれど、私が一番好きなフレーズがあって、
中村元先生の「原始仏教(NHKブックス)」に紹介されているのだけれど・・・



さらに商業都市ヴェーサーリーを眺めては、
「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ。」


ちなみに、これは釈尊の言葉として紹介されているのだけど、中村先生訳の「ブッダ最後の旅(岩波文庫)」にも見当たらなくて出典が分からない。

でも、ここに世界を美しさといのちの甘美さを一言呟く釈尊というのは、
私にとっては、至極、涙が出るほど美しい人なのだ。
その人生で、どれほどの人の弱さや醜さ、残酷さ、悲しさ、辛さ、虚しさ、儚さ・・・を受止めてきたか、到底、計り知れない人の、この一言に万感尽きぬ想いが込み上げるのだ。

そして、どういった人であれ、その実は「いのち」というものが分からなくて、
ただ、あくせくして、あるいは憤怒し、あるいは悲しみ・・・するのではないだろうか?と。
人の営みは、どのようなものであれ、この「いのち」という得体の掴めないもののみに振り回されているのかもしれない。
私だったら柔術(武術)を通じてが主、というだけで。
それが、たとえ世に悪業非道の限りを尽くしている人すら、その実は、同じかもしれないと想うのだ。

人は、その実、誰しも、そのような「美しい人」であるのではないだろうか?

そんな風に想えてならないのだ。

2006-08-24 01:11 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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