詩の典拠~牙城

Mさんの「詩入門 #2」を読んで想うあれこれ。

(以下、引用)
>このときの「余白」は詩を生成するためではない。ただ自分が書くものの読まれにくさに耐えられないという倫理の表出ではないのかと思う。理解されたい、同調してほしい、読んでほしいという孤独からの安易な逃走のために、余白の挿入を強いられている。

>それゆえ、改行をいかにしないか、それが現在の詩的倫理と呼べるものではないだろうか。改行をけっしてしない、それに耐えることが、現在の「詩的孤独」を成り立たせるゆいいつの倫理ではないだろうか。

目的と手段は容易に、しかも巧妙に入れ替わる。
「余白(改行)」を入れることで途切れるもの、繋がるもの、新たに生まれるもの、消えていくもの。
この記事(後半部)の「余白」は、形式的な「余白」の有無を越えて、その「入れる(あるいは入れない)ことで生じるもの」の放棄に対する「詩的倫理」からの視線を感じさせる。

表現したいものと、読んでほしいという間に生じる葛藤を越えた「詩的孤独」。
「家」のつくものは家が建つが(小説家など)、「人」のつくものは家が建たない(詩人など)と語るMさんの軽妙なワン・フレーズに連なるもの、とも言えそうな気がする。「詩的孤独」は、「詩的在り方」と言い換えても良いのかもしれない。
だからこれは、文芸全般に渡る「余白」の倫理、というよりも「在り方」の倫理だとも言える一方で、全ての文芸に「詩的在り方」を求めていると読む必要はない気がする。しかし、さらに一方では「詩でない詩的在り方」を保つ文芸作品の可能性を示すことにもなる、と言えよう。

「詩」というのは、私にとって、不思議で、また時に気が重い言葉だ。
詩は、やはり多くは「個人的側面」に、詩としての存在を大きく依存しているように感じるからだ。
そのテーマがいかなるものであれ、社会的なものであれ「個人的側面」を失してしまうことは、詩の典拠自体の放棄に繋がるのではないだろうか?
結果として、ある「詩」は理解され、同調され、読まれるかもしれない。しかし、そういう結果が得られないことが「詩」を無意味にするものでもなくなってしまう。
「詩的孤独」は結果ではなく営みに対して与えられる言葉だからで、求められているのは「倫理」としての詩的存在なのだから。
言い換えれば、一義的に、倫理自体が詩を詩たらしめるということだ。

しかし、その「倫理」は非常に過酷なものであることは確かだと想う。
倫理の過酷さこそが、詩をして、聳え屹立する牙城を生ぜしめる、ということなのだろうか・・・

2006-08-29 12:26 : 消去一葉 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :
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こんにちは、まっくさん。

でも倫理だけがひとを孤独にして、詩人にして……、なんていうのは、戦後詩までの話かもしれません。
書けなくなる人、書かない人、書けない人、ぼくは彼らと、ともにいます。
2006-08-29 22:23 : M URL : 編集
Mさん、二度目の、こんばんは(^^)
>戦後詩までの話かもしれません。
なんとなく周辺情況が見え始めて、分かるような気がします。
私は「書けなくなる人、書かない人、書けない人」まで行ってないので、散文でも駄文でも、書けるだけ書いてみたいと想います。
2006-08-30 02:25 : まっく URL : 編集
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