有資格者 - <主体>についてのメモ書き -

「自傷行為」というのが取り上げられることがある。
私は典型的な自傷行為(癖)を持ってはいないが(喫煙くらいは自傷行為ではない、というレベルで)、その気持ち自体は分からなくもないかもしれない、とも想う。

自傷行為においては「傷つける私」と「傷つけられる私」が現出するが、この両者はともに「私」という資格の元に存在し、恐らくは自傷行為によって“共に”快楽を享受する主体として現れるだろうと想う。そして、この“ふたつの主体(構成)”というのは、実は広範に観察されるだろう、いや、むしろ人間という不可解な存在構成にまつわる根本性すらあるのではないか?というのが率直な感想だ。

文学作品において見れば、ジュネの「葬儀」は、蹂躙する者と蹂躙される者が混然となってゆく様が描かれている。より分かり易く言い換えれば<愛する主体>と<愛される主体>が引き裂かれ、<他者>との融合と乖離を混然と繰り返す様が描かれ、その混沌は小説後半に進むにつれて深まり、最後半部では、もはや「誰が誰をナニした」という表現が限りなく意味をなさないところまで突き進んでしまう。

似たような主体現象はピンチョンの「重力の虹」でも描かれる(同作では後半、全体の3/4ほどのところで主人公は実質的に“消えて”しまう)。両作は主体(特に主人公)とは別にテーマを持つために、全く別の作品として読むべきものだが、こと主体論というようなもので論ずるのなら、ほぼ同じものと言ってよく、更に言えば特にWWⅡ以降のどこまでを区切りと成し得るのかは分からないが、似た現象が確認出来る作品は少なくないようだ。

これらを総括するなら<愛する資格を有する唯一の存在たる私>と<愛される資格を有する唯一の存在たる私>との間の埋め難い裂け目、その裂け目を埋めるための<他者>との関係が非常に重要視されるようになった、と言えるかもしれない。あるいは時代的に見て<愛する資格を有する唯一の存在たる私>と<愛される資格を有する唯一の存在たる私>は少なくとも存在論的には区別されるだろうが、実存論的には区別し得ないという哲学史的背景などがあったとすれば、それも関係したかもしれない。
発生論的に見れば、<愛される資格を有する唯一の存在たる私>が先ずあり、その完全性を損なわないように<愛する資格を有する唯一の存在たる私>を作り出すのであろう。そして、これは所謂“ナルシシズム”の問題であることが非常に面白い。“ナルシシズム”が“社会”の存立基盤とさえなっている可能性があることを示唆するからだ。

つまり、いずれ完全に一致し得ない“両者”は、どちらか一方を、最低でも<他者>に関与させ、委託するほかない。ここで<社会>の必要性が、必然性が<個人そのもの>から発するものなのだとさえ言えるかもしれない(原初においては逆であったのかもしれないが)。そして両者の関係を一層、簡明にするために介入してきた<社会>は実は、より一層の混乱を引き起こす<私>として<私>に関わってくることになってしまった。それは悲劇であり、より喜劇的なほどの悲劇である。

…などという下らぬことを考えながら、<私を愛する資格を有する唯一の存在たる私>と<私が愛される資格を有する唯一の存在たる私>の「両者が同時に快楽を享受する」こと、その困難さと回避不能性について、ツラツラと考えてしまったのだったのでメモっておく。

(#)

2015-04-11 00:00 : カイエ、詩 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
コメントの投稿
非公開コメント

« next  ホーム  prev »

拝啓




Author mak From "空白"

想一葉、兼訪問帳

星々の冷却(書肆侃侃房)
渓谷0年(オンライン版)
Both by mさん

【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

For Admin

落書内検索

一言お報せ

リンクは勝手に頂戴、削除してます
ご迷惑な場合は、ご一報下さい



メール・チェックは非常に稀です


BlogPeople

出現するかもエリア-転記候補