自我と自己

自己、あるいは自我という視点から「愛の回収」や「自己あるいは自我の逃走性」ということを考えていた。

しかし、ふと「自己愛」という用語は聞くけど「自我愛」というのは聞き慣れないし、何気なく「自己と自我」と言い分けてはいても、どちらがどうかということは、あまり意識してないことに気づいたので、少し調べてみた。
想像以上に専門的な話になっているようで、まず簡単に「自我はセルフ・イメージ、自己はユア・イメージ」と言い分けるフレーズを念頭にしてみた。
単純に自我がベースで自己が二の次というわけではないだろうが、最も分かり易い「自己」は「他人を通して見た自分」ということになるようだ。
参考)「自我」と「自己」自我自己
*哲学的には自我=自己意識という面もあるらしく、更にヤヤこしい…

また心理学としても「自我心理学⇒自己心理学」というように「が⇒こ」の五十音順で発展してきたらしい。多分、一般的に「精神分析」と聴いて想い浮かべるフロイト・メインの系譜は「自我心理学」とされ、「自己心理学」ハインツ・コフートが1970年頃から提唱し始めたものだとのこと(日本の「自己心理学」研究者では和田秀樹が著名らしい)。

ここは少し複雑というか混乱しそうになるので深入りしてないが、フロイト・メインの文脈で用いられている「自己」が、「自己心理学的には自我」ということがある気がする。それで「自己」と「自我」って違うよな、的に考えてしまったのだろう。
実際、1923年頃までのフロイトも「自我」を「自己」の意味で使っていたらしい。
「自己愛」というのも面倒な言い方、トートロジーっぽいが、言い得て妙な気もしてきた(しっかし頭イタイな)。
参考引用)Wiki
「意識する私」という概念は、精神分析学においては「自己もしくは自己イメージ」として明確に区別されている

下準備はこれくらいにして「愛の回収」や「自己あるいは自我の逃走性」に少し戻る。

まず分かり易いのは「逃走性」か。
色々な人を見ていて、「捕捉されたい私」と「捕捉から逃れたい私」というのがあるようだと想っていたのだった。
「捕捉されたい私」は「見て見て!」ということなので「ナルシシズム」ということになるのだろうか?そうすると単純に「自己愛」ということになりそうだが、一方で「捕捉から逃れたい私」というのがあるようで、それは「(他者の、そして自分の)拘束から逃れたい、自由でいたいという意味で「自我」の性質に根付いているのかもしれないな、と。

「捕捉されたい私」が「愛されている私」であるとすれば、「捕捉から逃れたい私」は主に「愛されなかった私」のようだ。
そして私の自由気ままにしたい、というエゴイズムが自我的なものなのかな?
簡単なようで矛盾するのも当たり前で、「捕捉されたい私」はナルシシズム的だし、「捕捉から逃れたい私」はエゴイズム的だ。
この逆走する私、「自我と自己」によって苦しむことが多いんだな、という感想、特に恋愛事で顕著みたいだ。

さっそく続いて「愛の回収」だけど、私への愛(ナルシシズム?)が充足していて、その上で他者を愛するなら、単純に言えば、仮に他者の愛を失っても(たとえば失恋)充足した私への愛に回帰すれば良いだけ、という話になる。つまり改めて「愛の回収」をする必要はない。
よく「自立」ということが言われるけど、「自立した愛」ということか。

ところが、どうしても「他者経由の愛」を考えざるを得ないことも多くて、これが「自己心理学」の誕生の契機にもなったのだと想うけれど、「素敵なアナタに愛されてる私(を愛している)」という状態になると、これは愛の経路が他者に強く依存することになるので、前述例に倣えば失恋時の痛手が、即ナルシシズムの傷となって深手を負ってしまうことになる。つまり「愛の回収」が不能な状態になってしまうわけだ。
「あんなに自信に満ち溢れてたのに…」というケースは珍しくないが、それは、そういうシステムで自分を愛していたからだ、ということなのだろう。

いずれも程度問題、バランスの問題なのだろうけれど、多分、「愛の回収」と「自己あるいは自我の逃走性」というのは深く関連していて、「愛の回収」を、より確実にするなら「(他者の)捕捉から逃れる」しかない。自分で自分を愛するナルシシズムに徹底すれば、それは必然的にエゴイズム的になるだろう。
逆に他者を経由して「愛の回収」を実行しようとするのなら、「(他者に)捕捉される私」を強めるしかないが、(自分の理想レベルを満たしてくれるような)他者は、そうそう簡単には愛してくれるものではない。そこでエゴイズムを犠牲にしてでもナルシシズムへの「貢献者」を見出さなくてはならなくなる。そしてエゴイズムの犠牲はナルシシズムを傷つけてしまうことが多いことは想像に難くない。

…などと考えていて、ナルシシズムとエゴイズムとは深く関連しているという以上に表裏的、あるいは同じ位置にあるのかもしれないなぁ、というのは当たり前のことなのかと苦笑い。



【 メモからの転記-理想自我と自我理想 】
理想自我と自我理想の違いは大きいものの、理想自我は「理想的な自我像」でほぼ違いはないようだが、自我理想は概念変遷もあって少し厄介だ。当初のフロイトは超自我とほぼ同一視しているが、その後に変遷もある、ジジェク経由のラカン図説明に従うとラカンも段階的に説明していた。
自我理想も「自我的理想像」と書けるのだが、「自我の理想的在り方」から「自我を理想と見る(みなす)理想」という程度までは軽く拡がる。

実際は上記二つの表現も同じ意味を持つというのがジジェク経由のラカン図理解になると想うが、そのような複層に見えるのは「自我を見るのは誰か?」「理想を決定するのは誰か?」「理想と同一化される自我とは誰か?」といった幾層もの丁寧な検証を経るためだ。そこにはお馴染の「想像的自我」「想像的他者」なども出てくるが、それも遡及的様相において(あるいはトポロジック的に)必然的なものであるように想われる。

(#)

2015-05-08 12:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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