引用についての覚書

つまるところ可能であれば非-積極的な、つまり変革的な誤読を伴わない引用は保守的ブルジョワ以上に、むしろ高利を貪る資本家の仕様に著しい一致を示すだけのものに過ぎない。
それは仮に引用元の上に蓄積するもの、累積するものがあれば、なおさら言うまでもないほどに明白なことであって、次のように言い換えることもできよう。

“引用によって示されようとするものは、かくかくしかじかの由来であるが、それら由来すべてを遡行した「そもそもの出自」など存在しないとまでは言えないが、その存在は示し得ない”

そして、このように明らかにされ得ない架空の資本的出自から出発して、いつの間にか積み重ねられ増殖してきた由来、それら無数の由来の上に、更に新たな由来を積み重ねて増殖しようとするエネルギーが、ほとんどの場合の<引用>という行為を駆り立て、また突き動かしているに過ぎないということであって、ここに至れば、もはや引用者と資本家は、ほとんど区別がつかないか、全く同じ存在である。

忘れてはならないのは、我々すべてが引用者であるという当然のことであって、そこに効率的な運用をなし得るか否かの差異が、あるいは存在するかもしれないということであろう。
そして<引用>は快楽的、むしろ享楽的行為でもあるということだ。

初出:note.mu(20150528)
2015-05-29 00:00 : カイエ、詩 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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