自我の境界線

アメリカの電脳映画の影響を受けたアニメを見た。

電脳世界が蔓延し、果ては肉体も機械化され、残るは僅かな脳と自我。
脳は電脳世界に直結し、瞬時に「外部情報」を自らのものとし、
脳の記憶も「電脳世界」の影響を受け、変質する。

自分を認識し得るのは僅かな自我。
それすらも幻影かという狂気の中、存在は宇宙との同質化か無かに帰するのではないかという、
一応のメッセージ。

「自我」「存在」というのは、確かに永らく哲学のテーマではある。
現在に至っても現代思想の一部で扱われている。

そのような思索をしていたのは高校時代だったかと想う。
論理と現実の無限の照合。
気が狂ってもおかしくない作業。

一度、自転車に乗りながら幽体離脱に近い心理状態を味わったことがある。
一種の多重人格状態だ。
今では体力、精神力ともについていかないだろう。
それ以前に、そのような思索自体が虚しく感じる。

とはいえ、若い頃には特に一度は考えることがあるかもしれない。
「自分」とはなんなのか?

この問いにはいくつかの「答え」が用意されている。
客観的存在としての自分、主観的存在としての自分。
自分をとりまく関係性の中にいる自分、それを超越した自分。
存在論的には凡そコノ程度にまとめておけば良いだろう。

しかし、そもそもこの問い自体が生じる不思議さがある。
一般的には生きてる自分を疑う心理にはならない。
今、こうして存在している自分を「意識化」するなどは、
あまり大声で話すべき内容とは思えないのだ。

そこに潜むのは、「自分の存在」を神の視点で確認したいという願望ではなかろうか?
はっきりとした「自我」を求めているようで、
実は神になりたいという心理が働いているように感じてならない。
だから、存在論的な話は、どうも高飛車に感じる。

自我など対したものではないのだ。
それは物理的に言えば定義の問題に帰結しよう。
それでも、確かにミクロ的には「どこまでが自分の肌」ということはいえなくなるが。

久し振りに「自我思索」の醜さを見せつけられたようで吐き気がした。
確かに今後、特に脳を巡って「自我」の問題は哲学味をより帯びてくるだろう。

しかし・・・

やはりどういう形であれ、神にならんという
鼻持ちならない人間の傲慢さを改めて見せられるのは嫌な気分だ。



(初出:2005年01月07日)

2006-09-13 18:00 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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