作家の仕事

浅田次郎の「勇気凛々ルリの色(満点の星)」に「同士討ちについて」というエッセイがある。
井上靖の「デビューして二、三年は、ともかく数を書かなくてはならない」という言葉を信じて(と本人は言って)、メチャクチャに仕事を引き受けて一心不乱に書いているうちに月刊誌並みの発刊頻度になってしまい・・・という話だ。

このエッセイは笑える。
・・・のだが、笑えるように書いているのであって、
実際、作家というか小説家というのは本当に大変だと想った。

大沢・京極・宮部、三氏の「大極宮」というサイトを昨日、見つけて質問コーナーを読んでいたのだけど、
やはり小説家志望らしき人からの質問なんかもあったりしてスゴク興味深く読んでしまった。

大極宮三氏は、自分達を「守銭奴」と位置付けて自嘲的に書いているけれど、
「長期休み(Q155)」なんかを読むと、仕事がなくなる恐怖もさることながら、
とにかく「書く」ことへの執念が桁違いのような気がする。

面白いのは、この三者に浅田氏を加えて総合しても、
「書く量」というのは30枚/日が通常の平均上限らしい。
もちろん、これには変動があるわけだけれど。
ある程度の落ち着いた状況にあってさえ、やはり、ソレ位は書くのだなぁ、と、妙な感心をした。
当然、人目に晒される文を書くわけで、しかも、その合間に本を読み、資料を集め、調べ・・・となるわけで。

で、大体のところを総合すると「小説家になりたかったら、取り敢えず書け」は当たり前ながらの大原則で、
しかし、どうも、その大原則から外れてる人が多いように見ているようだ。
逆に言えば、自分達が書いてきた量に対する自負の現われなのだろうと想う。

ごくごく一部の天才や運(?)に恵まれた人は、書き始めるやいなやスラスラスラというのもいるだろう。
しかし一般的に、どんな分野でも、この手の天才は希少だし、その才にも限りがあるものだ。

やはり書き物を生業にするのであれば、とにかく書かなければ話にならないのは当たり前過ぎるほど当たり前のことかもしれない。

そういえば「大極宮」の質問コーナーで「詩人」の話題が出ていて、
一人、大沢さんだけが「詩」を書くらしい。
で「詩人というのは、自分が詩人だと想ったときに詩人になれる。でも、今の時代に詩人は食えない。」というような返答をしていたのが興味深かった。
もっとも、いつの時代でも詩だけで食えたのかは甚だ疑問でもあるのだけれど。

女房は、私がポツポツ書いているのを見て、
「物書きにでもなれば~。」
とか呑気なことを言ったりするが、そんな悠長な世界は、そうそうないんである。
が、ポツポツでも書くのは好きなので(笑)、もう少し練習量を増やそうかと想った次第。

2006-09-15 13:50 : 消去一葉 : コメント : 4 : トラックバック : 0 :
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修練としての文学
まっくさん、こんにちは。
志賀直哉が永井荷風をぜんぶ写した、とかいった話もありますが、ピアノの練習みたいなもので、「毎日、詩を一個、一年続けたら誰でも詩人になれる」とある対談の中で、冗談半分に言ったのは吉本隆明で、ぼくはそれを信じて、1年半くらいはしましたね。
まっくさんの記事から言えるのは、そうして「自分が詩人だと想える」ようになった、そういうことです。
ちゃんと紙と鉛筆(サインペン)で書いていました。

やはり吉本は、このときも正しかったか、なんて思ったりしましたね。なつかしい20代の話です。
2006-09-15 14:42 : M URL : 編集
自覚
Mさん、こんにちは(^^)
エッセイに書かれているだけでも、浅田次郎の筆写量には驚きました。私も、今の仕事ではド素人からプロと想えるまで、調べ、考え、試し・・・と、何度も徹底してやってきましたが、なんでも似たところがあるものですね。

詩は(小説も同じだと想いますが)「紙と鉛筆(サインペン)」も大切なんだろうな、とパソコン叩きながら想ってます。未経験ですが、「筆を持つ」ことが「自覚」の芽生えに影響すると想うんです。もっとも量産には向きませんが(^^;

せっかく書くなら、やっぱり紙にも書こうかな・・・
2006-09-15 18:00 : まっく URL : 編集
当時は、ワープロがなかった、それだけなんです。
紙と筆が終わったとき、詩は変わったと思います。どう変わったかうまくいえませんが。
千光さんが、「紙媒体の詩って、なんだか未知の領域」と書いたのを見てとても驚きました。ああ、詩集も読まなくなった世代なんだな、と思いました。それはショックでしたよ。
2006-09-15 18:13 : M URL : 編集
詩のイメージと言えるかは分かりませんが、私の原体験は宮沢賢治が手帳に書いた詩なんです。
今は縦書き設定のワードがメインなのですが、画面で見るのと紙上で見るのでさえ、やっぱり違います。Mさんが仰ってたように縦横の文字・行数も大きいし。「なにが」というのは本当に分からないんですが、全く違うものを見てるような気にすらなることがあります。
詩集の減少には本当に驚きます。「読まれなくなった」のが先なんでしょうけれど。十四、五年前までは見掛けた記憶があり、二十年前には確実にありました。今は、日本人だと中也、朔太郎、賢治などの決まった故人の僅かな詩集がヒッソリとあるだけで。たまに見掛ける「話題の(売る)詩集」なんかも、アッという間に書店から消えていきますし。
回廊さんのところでの話でも想ったのですが、詩であれば「新しい(私達の)叙情」とでも言うべきものが欠けてしまっているのかも知れません。
2006-09-15 18:34 : まっく URL : 編集
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