あやかし。文字(もんじ)と戯れて。

こうして再度、書き始める前。
一度、書きたい想いを、ただツラツラと書き始めた頃のことである。
数ヶ月で書くことを止めた事がある。
いや、これからすらも、いつ途絶えるかは分からぬが。

想うに「文字(もんじ)」には、現代に至っても魔性が宿る気がしてならない。
元々、漢字は占いの道具から発生したようであるから、其からすれば当然なのかもしれぬ。

「海底20000メトル(2004.12.14.)」を書いた後、あの忌まわしき大地震と津波が起きた。
前後して、文字と現象の一致に、勝手に恐れをなした。
そのことが書く事を中断した一つの事由であるが、想えば自意識過剰の甚だしさに苦笑を禁じえない。

元来、私はスピリチュアルな才は多少はあるらしいことは幾人かの方から指摘は受けたことがある。
それが想わぬ形で現れたがために怯えてしまった、とも言えようか。
占を本業とする方からは「君子不占」の言葉を頂戴し「改めて占わずとも分かるでしょう?」と。

これは何も、私を含めた「誰かしらに特殊な才がある」ことを意味するのではなかろう。
全てはあるべくしてあり、起こるべくして起こる。
因に縛られた果から逃れる術はあろうはずもないのに、人は、だからこそ遁走を夢見る。

「書く」というのは、その遁走衝動の一つなのかも知れない。
実際、書くこと自体には本人の衝動を満足させる以上の何物も求め得ない。
それが営利を目的としていようと、文芸的な満足を目的としていようと。
書く事自体にこそ、書く人の求めるものがある。
その意味では、構築文学者は自分で自分を苦しめる苦行好きに見える。

翻って「書かれたもの」は趣を異にする。
それは紛れもなく「文字(もんじ)」である。
文字には、あやかしが宿る。
宿りしあやかしに何を観るかは人それぞれであるにしても、である。

そうして眺めてみると、書くこと、書かれたこと、書かれたことを読むこと。
これらは全て作業自体に意味はなく、また、敢えて言えば同じ作業である。

あやかしとの戯れ。

しかし、あやかしの魔性に恐れをなすことはない。
現世、確固として観える全て、本来の姿はあやかしでしかないから。
あやかしをあやかしのままに戻してあげれば良いだけのことであろう。
さすれば、あやかしはタネを明かされたマジックでしかなく、マジシヤンは他ならぬ我らであったことに気付きもしよう。

全ての始まりは、我らがマジシヤンである自覚を取り戻すことにこそ、あるのかもしれない。

私は未だ、自らのマジックの中で、あやかしを受け続けているが。



(初出:2006年02月12日)

2006-09-26 23:14 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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