「詩の入神紀」に寄せて

ただただ魅入られてしまう、それとは別に、ただただ没頭してしまう。
二つの違いは大きい。後者は神を見ることはあるかもしれないが近付くことは出来ず、後者は神を見ることは出来ないかもしれないが近付くことは出来る。

ここ数日、頭から離れない「非在としての主体」というのは何なのだろう?とボンヤリと想いながら、そんなことを考えていた。もちろん「主体」というものが存在するのか不在なのかという二項の折衷としてではなく、「主体」というものは非在で、非在であるが故に存在するという在り方を示す、二項に対して言うならば、いわば「矛盾項」なのだ。
だから「私」もまた、信じる限りにおいて「いる」と言えるし、また信じていない「私」など存在しない、とも。そして多分、それは実存的な「信じる」とは違うフェイズで生じる「信じる」なのだろう。

その「捩れ」の中に「自分」を紛れ込ましてしまうことは、きっと重大な、いや、必ず重大な崩壊を招く・・・故に、それらは秘匿されるべきものとしてしか伝えられてこなかった。それは一方で「そういうこと」が人間として生活するには左程の重大事ではない、ということも意味しているのかもしれない。実際、そんなことを考えることが生活上、必須なわけはなかろう。人間ではない魑魅魍魎の類にのみ、すがる縁として、それはあるだけなのだ。

その考えを敷衍して今、「詩」というものに私が求めるものがあるとすれば、それは「非在としての詩」かもしれない。どこの誰が書いているかも知らない、そもそも「その詩の存在」すら知らない「詩」こそが。だから「その詩」は誰の目にも触れ得る場所になくてはならない。「ひっそりと」しまい込まれてしまった詩などは、既にして手垢に汚れ過ぎてしまっている。詩として書かれた詩なども同じ臭いにまみれてしまう。

・・・などという狂おしい中に生まれた詩を、私なら笑うだろう。
そんな詩など、詩ではないに違いないから。
2008-01-31 00:05 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
コメントの投稿
非公開コメント

« next  ホーム  prev »

拝啓




Author mak From "空白"

想一葉、兼訪問帳

星々の冷却(書肆侃侃房)
渓谷0年(オンライン版)
Both by mさん

【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

For Admin

落書内検索

月毎落書

一言お報せ

リンクは勝手に頂戴、削除してます
ご迷惑な場合は、ご一報下さい



メール・チェックは非常に稀です


BlogPeople

出現するかもエリア-転記候補