以前にも触れたことような記憶があるが、二度の千日回峰行(二度の回峰行を為したのは比叡山千年の歴史中三名のみ)を遂げた酒井雄哉大阿闍梨のインタビュー記事で、行中瀕死状態での異常感覚について触れられている。
香灰の落ちる音、数km離れたところで作られている味噌汁の匂いをはっきりと感じたのだそうだ。
実際(科学的)に、そういう「知覚」が確認されたわけではないが、自我が崩壊する寸前では、通常、我々が想像することも出来ない何かが生じることだけは確かなようだ。
>誰かと正対することにある孤独
Mさんの
「お願い、目線も下さい」は、私の中では不安定だった見方に一つの方向性を見せてくれた気がする。
武術・武道と言われているものは本質的に相手を殺傷する技術であることに変わりなく、その表裏として自分もまた死にさらされるというものだ。
優越の問題では全くないことを当然の前提として、その本質面は試合や、所謂、格闘技には現れてこない(現れるべきものではない)。
「死」を挟んで対峙する二人の間には毛程にも至らない差で生じる生死が横たわっているが、その毛程にも至らない差を確実にするために武術・武道の技術というものは磨かれてきたと言って良いだろう。
「いかなる熟練者も、素人の想わぬ一太刀で命を落とす」とは口酸っぱく言われる心得であるが、仮に、そのような隙もなく互いの力量も高い達人同士が相対したらどうであろうか?
そのような話題を戯れに先生と話したことがあるのだが「事前に察して下手が刀を納めるか、下手が分からぬ間に切られているかであろう」というのが凡そで一致した意見だった。
同等とも想える力量差が圧倒的に次元の違う差として現れるのが武術・武道の不思議さと言えるかもしれないし、現せるようになることを目指すのが修行となる。
そこに相手はいるのだろうか?というと既に比較対象としては存在していないも同然で、また、それを人のありようにまで見方を広げるのなら、決して埋めることの出来ない次元差を認めることからしか我々は他人と対峙することは出来ないのだ、ということを意味しているようにも思われる。
また共通体験というものも、そこでは儚い手掛かりになり得る可能性を仄めかすばかりのものである。
武術・武道が格闘技と一線を画すとしたら、それは、そのような形而上的存在のありようにしかない気がする。
「どちらが強いか?」ということに興味が向くことは私も理解出来るが、格闘家に武術・武道家というべき人がいるように、武術・武道家にも限りなく格闘家に近い人も多い。
単純に「強さ」で比較する、出来る対象としては存在していないと考えるのが妥当だろう。
一方で、それを現実的な結果として現せる技術として消化した上で継承されていくのが武術・武道なのだが、そもそもの姿勢が問われるところも大きい。
巨大なパワーや圧倒的なスピードが恐ろしいものであることに変わりなく、それらを凌駕し得る次元が違うとしか想えない技術に魅かれる者達は、そういう意味で常に立ち返るべき場所を持っていなくてはならない。
相手が何らかの手掛かりを持て、また、その中で自分が動くということは、既に同次元での向き合いにしか過ぎない。
仮に相手に手掛かりありと感じられても、別のスキームで動くことが必要なのだ。
そういう技術を目指すのであれば、かような形而上的なお話に終始することなく稽古に臨む姿勢を崩してはならない。
- 2008/06/28(土) 11:41:11|
- 消去一葉
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