夜の底(初出:2006年06月21日)

「夜の底が白くなった」(「雪国」川端康成)
綾:感覚を、奉ずるということ;横光利一と川端康成 - livedoor Blog(ブログ)より

川端康成はともかく、横光利一の記憶は既に私には遠過ぎますが、確かに新感覚派や新感覚主義という言葉は記憶に残ってます。
それを、やはり朧な記憶の川端康成から引いたとして・・・そして、風さまの解説(?)を頼りに考えたところ、いや感じたところを。

まず、風さまが引用して下さっている、いくつかの文を。
「雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」川端康成『伊豆の踊り子』
「夜の底が白くなった」川端康成『雪国』
「海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。
 彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から輝り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。」横光利一『春は馬車に乗って』

これらの文を読んで感じるのは、そこに個として存在する風景ではなく、自分の心象に映った風景を描写している、ということです。
人は、同じ場所にありながら、その折の感情によって「見える風景」が異なります。
それを、あるいは「情景」と言っても良いのかもしれません。

それは、たとえば写実的に書いた文章が単一的に存在し、読者との関係を待つのと異なり、書き手との複合的な存在という生々しさを持つ気がするのです。
読み手としては、主人公あるいは登場人物の心象に、より近い感覚で、あるいは陳腐ないい方をすれば「感情移入」して読む可能性が非常に高い。
これは、確かに新感覚派と言われる文豪達の前には萌芽が見られることこそあれ、全く違った印象を受ける気がします。

そして、私にとって重さを感じるのは、その新感覚派以前に見られる「萌芽」です。
何故、そのような「萌芽」が生じたのか?
それは、そのような表現をしなくては表せない何かが大きく膨らんできていた証左なのではないか、と。

何故に文学論など語るに落ちる私が、この題に、にも通じるのですが、
「悲しい」と書けば足れば良いところ、実はそれでは語り切れない「何か」というものは実に多い。
だから、その「何か」を託す表現は、私ですら模索することがあります。
そのために風景、あるいは情景というのは、非常に重要な要素を占めることが確かにある気がするのです。

ただ、一方で日本文学は、古典からして行間を読むというような面を強く意識されてきた気もするのです。
それは、あるいは社会的な要請であったり、伝え切れない想いを一言に、あるいは花一つに託す・・・
そんな、私が、どこかしら好かずにいられない日本の一面を持って。

そういう意味では、あるいは「新感覚派」というのは、「形態を変えた日本文学の必然」なのかもしれません。

全く無関係なことにしか感じられないかとは想うのですが、私は何故か次の名言を想い出してしまいました。



「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず。」(風姿家伝・世阿弥)

2009-09-09 22:51 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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