豊穣なる呪の世界(初出:2006年06月27日)

中学生の後期からだろうか、現代思想というのに興味を抱いて乱読した時期がある。
特に興味深く読んだのは記号論だろうか。
流行(はやり)ということもあったかもしれない。
言葉、文字の魔力めいたものに魅かれたのは、その時期の経験も影響している気がする。


知人の父親は、一時期、仙人を家に住まわせていたという。
中でも興味深く読んだのが身隠し(?)の術の話である。
なんでも「ある術」を使うことで、他人が仙人の存在を認識出来なくなるという。
それなら・・・と、無銭飲食の現場を、さらには色々な悪戯を、知人は目撃している。

にわかには信じ難いことだし、私自身は自分で見ない限りは信じない。
が、その「理屈」は理解出来る気がする。
簡単に言えば、無意識の深いレベルまで「言葉」を排除するのだ。
人の認識は、既に「言葉」に侵されに侵されまくっている。
その「言葉の世界」から見ると、言葉のない存在は異次元の存在になる・・・らしい。

近年の脳科学などの発達で、こういった現象が必ずしも荒唐無稽な話というだけで済まない奇妙な現象も確認されている。
勿論、それは符合する、というだけで、仙人の術そのものに迫るものではないが。
いずれにしても、人と言葉は切っても切れない関係に、時に喜びがあり、悲しみがあり、苦しみがある。

「時」の概念がなければ「農耕」などなかったであろう。
人間の農耕は、ある種の蟻などに見られる農耕作業とは異質な気がする。
その背景には「言葉」という不気味な存在を感じずにはいられない。
言葉は時間さえ生み出した、と言えるのではなかろうか。

刷り込まれた膨張を書きながら感じていたのは、
言葉・・・私は敢えて「呪(しゅ)」といいたいのだが、
その「呪」なるもの、そのものの、あまりに希薄になった存在感に対する怨嗟めいたものがある。
「呪」とは、そんなに希薄な存在に成り果ててしまったのだろうか?
それとも、私が麻痺してしまっているのか。

まだ幼い子供達が平気で「死ね」と口にする。
そこに潜む「畏れ」のなさこそ、私は恐ろしい。
「呪」は、未だ、その力を失ってなどいないと想うのだ。

ただ、我々は、あまりに豊穣な呪に囲まれて、一つ一つの「呪の力」を見損なっているだけなのだ、と。
「呪」は静かに、しかし深く我々の世界を覆い尽し続けているのではないだろうか?

現代の狂気は、「呪の発露」と見ることが出来る気がするのである。

であれば、この狂気にも救いはある。
そして誰もが狂気に立ち向かい得る。

呪術師達よ、今こそ立ち上がらん!!

2009-09-09 23:03 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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