「暴力」という聖域

最近、いくつかのブログを散策していて「中上健次」の名前を見て懐かしくなった。
私にとっての彼は、生きている人物として知っている(た)数少ない共感出来る小説家だった。
彼が描いたものについては色々な評がある。
私が感じたのは、こんなにも身近にありながら描かれていない「暴力」の存在だった。

「扱っている」ものは多いのだが、暴力を感じる文学、思想・哲学は意外と少ない。
これは「暴力を知る書き手」自体が少ないことに起因しているのではないだろうか?
子供の乱暴と、暴力は違う。
ターゲットを定めて無言のままに破壊し尽くす。
それが「暴力」だ。

村上龍は「暴力とセックスとドラッグ(だったかな?)」を描いた作家、ということになっているが、少なくとも暴力は感じなかった。
そこに感じたのは、単なる「暴発」だ。
子供の乱暴が、少し形態を変えた位のものにしか感じ得なかった。
だから文壇(?)の騒ぎが何なのかも理解出来なかったし、それ自体が異常な光景に見えて仕方なかった。

想うに、暴力は具体的な痛みを伴わないと描けないものの一つなのだ。
その重要性については知っていても、また理解していても、暴力の痛みの中にいなければ描く手掛かりすら掴めない。
殴られた痛みも殴る痛みも、血反吐の中でしか感じられない。

言葉の暴力も精神的な暴力も、確かにある。
しかし、畢竟、肉体的な暴力から、ひ弱に腰引けて逃げ回ってしまっていては、出てくる言葉は「暴力反対!」という誠に耳障りの良い言葉・・・よくて擬似暴力としての乱暴でしかないのだ。

今でも世は、暴力に満ち満ちている。
暴力に涙し、悔しさを噛み締め、悲しみと絶望に暮れる人々がいる。
暴力を描くことなくして未来は見えてこない。

暴力は、いまや触れられぬままに聖域化し続けている。
その聖域の一端を垣間見せてくれた稀有な作家。
それが、私にとっての中上健次だった。

彼は余りに早逝に過ぎた。
せめて、あと十年の歳月を経た彼の作品を、私は読んでみたかった、と想うことがある。

2006-07-19 00:32 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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