天地の間

最後の一押しで山の清冽な水が迸り、男は手に受けて顔に浴び、そのまま丁寧に髪を撫でつけた。程なく、天から金粉が降り注ぎ、その逞しい背中を順々に神々しく輝かせた。
山際から遅めの朝が覗いたそのとき「やぁ~だぁ~、また・・・」幼い声が呆れたように響いた。下の服くらい着ければいいのに、と続けながらタオルを男の側に放ると、「誰も見てやせん」男は笑顔を振り向けて返した。「ソコ、ソコ!」泰子は顔を覆って家の中に消え、「別に見られても惜しくはないがのぅ・・・」水を浴びた白いブリーフに下を浮かばせたまま、隠そうともせずに上半身を拭いながら泰子を追って大股に歩いていった。

まだ薄霧の煙る中、幾筋もの煙が青空に飲み込まれている。階下から、泰子のいる隣家から、あるいはそこらじゅうから出るゴッタ煮のような朝餉の臭いが周囲を満たした。布団の中でゴクリと喉を鳴らしながら、高雄は先刻の淡いピンクのワンピースを思い浮べて下着に手を突っ込み、母の足音が聞える頃には既に終えて情けない気持ちのままで、こちらから迎えて走り降りていった。
食卓には、いつもと同じく沢庵とカボチャの煮物に豆腐だけ浮かべた味噌汁、麦飯が並び、洋子はテレビに気を取られながら、黙々と箸を運んでいた。「顔ぐらい洗ったらいいだろうに・・・」味噌汁を片手に、高雄の顔を見もせず母が言うと、そのときだけは私の出番であるかのように、洋子が意味ありげな目を向けた。

テレビには、どこぞのことかすらサッパリ見当もつかない事件が次々と出てきては、アナウンサーは世も末だと言わんばかりの表情で難しいことを言っている。飯をかきこみながら「なんも分からんくせに」と呟くと「兄貴には分からないでしょうね、毎朝、バカになってくばかりですから。」と逆襲された。「なんでバカになる?」片づけを始めながら誰ともなしに言う母の声を聞いて、洋子はペロリと舌を出した。その舌があまりに卑猥で、高雄は危うく味噌汁を噴き出しかけた。
「やっちゃんに、これを持っていってあげて。」「すぐに帰って来るのよ、手伝ってもらいたいことが山ほどあるんだから。」と念押ししながら煮コゴリ混じりの魚を入れた御重を持たせて、母はでっぷりした尻を向けて奥に引っ込んだ。

泰子の家と高雄の家は境という境もなく、ただ両家の気持ちだけが境になっている。
泰子の代わりにあんちゃんが出てきて「いつも悪いな。」と高雄の頭を撫でた。その大きくいかつい手は、つい、この間までは高雄にとっての父の手だった。泰子に見られたくない一心で「お袋が、すぐ戻って来いって」とツイ口にした自分に虫唾が走ったが、丁寧に戸を閉めて境を跨いだ。

手伝いとて大したものではない。中学校が休みに入って以来、毎日、葉モノを選り分けるだけだ。その中にモロコシやらが加わっても同じである。「洋子はまだ小さいから」と里の子にしては甘やかされた妹は、毎日、どこぞと知らずに飛び出していくのだった。「おばさん、いつもありがとう」泰子が来て手伝いに加わった。「やっちゃん、こっちこそ悪いねぇ。兄さんの頑張りモンだから、宜しく頼むわね。」そう言い残して母は二人に作業を任せ、いつものように出掛けていった。
二人で居るときの泰子は常よりも冗舌で、高雄は、それが憎々しくて仕方なかったが、なんでそんな気持ちになるのかは見当がつかなかった。

チョコンと前に座った泰子は、小柄ながら既に女の体になって独特の匂いに満ちていた。「たーくん、おっきくなったよねぇ」手繰りしながらの言葉に「まだまだ、あんちゃんほどじゃねぇ」と気なしに応えた高雄に「そんなことない、いつか」と言い掛けて、泰子は頬を染めてうつむき黙った。高雄は、毎度、訊きたくて仕方ないあのことを飲み込んで、黙々と作業を続けた。
二人は十五になっていて、次の春には山越えの公立高校に進むことになっていた。通っている小中併設学校と高校、高雄の家を地図で結ぶとキレイに正三角形を描く場所にある。彼らより四つ下の洋子の勉強は、もっぱら泰子がみていた。

その正三角形の中に、ほとんど里の全てが入ってしまう。里と言っても大昔からあるわけでもないらしく、あちらこちらからの流れ者が、他に行きようもないので集っているように見えるだけで、寄り合いにでも行けば何処の言葉とも定まらぬ言葉でめいめいが言いたいことを言い誰もが誰をも理解しようもない。

「里長」は里の際を流れる大川の橋近くの丘に住まうことになっていたが、年中、訳の分からない連中が流れ込んで来ていたことの名残だそうだ。流れ込んできた連中は、そうして、何故か外に出て行かない。流れ来るばかりで誰といい出て行きもしないのに、里人はさして増えることがない。どころか、時に減った。
今の里長は山本・・・山じぃで、高雄の生まれた頃には、既に里長だった。里の者は皆、誰のものとも定まらない田畑に行く者、山に行く者、海に行く者のほか、店屋を営む者、床屋を営む者、本屋を営む者など、各々が勝手に職作っていた。

あんちゃんは、高雄が十になろうかというときに泰子を伴って孤児の兄妹として里に来たまま、その頃に空いていた海にほど近い高雄の隣家に住みついて、定めた職なく誰彼の手伝いを生業にしていた。
高雄の父は祖父の代からの里人だったが、数年前に海から死人になって戻り「崖上の人」になった。
彼は、その時のことをはっきりと覚えている。海藻が絡まり、ところどころを魚蟹に喰われて目玉のない父を、里人は皆、無言で引き上げた。崖上は五人の男衆だけが行けると定められていて、あんちゃんは、他の四人と一緒に崖上に父を葬りに行った。母は、その時、彼とずっと一緒にいたが、涙一つ見せず、気丈なものだと皆は言った。
一昨年の嵐で崖が土砂崩れを起こし、崖下に住んでいた一家が家を潰された。明朝、崖に向かった高雄は、生まれて初めてしゃれこうべを見た。骸が、散っていた。しかし翌日には、それらはキレイに片付けられて、再び、崖上を見ることはなく、里人も他のことと同じく、そのことを口することはなかった。

「暑いでしょう?アイス買ってきたんよ。」泰子に袋を手渡しながら、近くの椅子に遠くの海を見ながら、母は座った。「ありがとう!」一本を早速に開けて、はい、と高雄に渡し、自分も一本、口に咥えた。「お兄さんは働き者だねぇ。」誰ともなしに呟く母の言葉を聞いて、泰子が頬を染めて俯いたのを、高雄は見つめていた。アイスの冷が、頭に響いた。口紅なんぞつけおって、心中で毒づいたが、それよりも泰子の口元が気になって仕方なかった。「あんちゃん、どこにいっとる?」興味なさげに聞くともなしに聞くと「山」と、一言だけ母は答えた。山、か・・・高雄も、そこで何が起きてるか知らぬでもなければ、母を詰する気も起きなかった。

「もう、いいだろ?」答えを待たずに高雄は飛び出した。自転車にまたがるとき「すいません!」という泰子の声が聞えた。砂利道をヨロヨロ走り始めると息せき切った泰子が追い付いた。「一人で行かんでよ!」無言のままの高雄の荷台に座りながら、背中をイヤというほど叩いた。「丘に行くだけだ。」自転車は、砂利に車輪を取られながらも舗装道に辿り着いた。
そこから2kmほど。里中に小高い丘があった。周囲を川と山と海と崖に囲まれた里を一望出来る場所だった。

陽が高かった。泰子も無言のまま、汗でぐっしょりと濡れそぼったシャツを握っている。丘への登り坂は、一人でも立ちこぎしなければ登れない。やむなく高雄は自転車を降り、泰子も降りて、二人で丘の上を目指した。丘上までは、さほどの距離があるわけではない。数百メートルも行けば、均した平地が見えてくる。夏日中の丘には誰もいなかった。

「お前、自転車、使っていいから帰れ。」腰を下ろしながら言った。「帰っても、なんもすることないもん。」泰子は草地をプラプラと歩き、時折、腰をしゃがめては花を摘んで空に放りながら言った。朝に見たワンピースだった。高雄は、急に想い出したように呟いた。「お前たち、本当に兄妹なんか?」泰子は、ただでさえ大きな眼を、ことさらに開いて高雄を見つめたまま立ち尽くした。陽炎で見え難い、その足はしかし、カクカクと小刻みに震えていた。
泰子の様子に気付かないまま、高雄は去年の夏の日のことを想い出していた。

そのとき、いつものように母の使いで泰子の家に行ったとき、珍しく戸には鍵がかかっていた。訝しく想いながら家のぐるりを巡って後ろに回ったとき、人の気配がした。丁度、高雄の額の高さに台所の小窓があり、背伸びすると中の様子が見えた。その窓と玄関の間の部屋に、二人はいた。あんちゃんが胡坐をかいて泰子を後ろ向きにして背後から抱きかかえていた。あんちゃんが折に触れて泰子の耳に何か囁いているようだが聞く様子もなく、ただ泰子の首は右に左に揺れ、口はいつにないほど呆けたように開かれていた。既に女のそれと言ってよい胸は凡そはだけ「あふっ・・・ぐっ・・・」と、聞き慣れない泰子の喘ぎだけが、室内に、くぐもり響いていた。

その後、あんちゃんも泰子にも変わった所は見られなかった。
ただ高雄が、高雄の中が変わった。以来、高雄の自涜が始まり、彼の視線は泰子を女として追い掛けるようになった。あんちゃんの行くところに「女」がいることに気付いた。その中の一人が、彼の母であった。父代わりと慕っていた、あんちゃんは、父ではなくなった。

いつの間にか陽が大きく傾いていた。泰子は、ただ黙って隣に座り、海を眺めていた。高雄は、美しいなと想った。「お前、キレイになったな。」呟くと「キレイになんて、ならなくていいわ。」視線を変えずに泰子は答えた。二人は無言のまま、語り尽くしたかのように疲れきって家に向かった。
洋子は菓子をほうばりながら、テレビ・アニメを飽かず見ていた。「お前、一人か?」「うん、今はね。兄貴が帰ってきたから二人。」不気味な声を出すと想った。

陽が海に沈み、空が煌き始めてもしかし、母は帰ってこなかった。「母さんは帰ってこないわよ。」玄関越しに待ち受けていた高雄が振り返った。「どうしてだ?」「あんちゃんが言ってた。」あんちゃんが?
胸騒ぎがした。結局、その晩、母は帰ってこなかった。
その次の日も、その次も永遠に。

高雄は、山に行くことにした。
来る日も来る日も、木に登って枝を落とし、木挽きして木を背負い戻る日々が続いた。
そうして疲れ切っていないと、彼は気がおかしくなるような気がした。
何もかもが分かっているような感覚が、それを一層に強くするのだった。
洋子の言葉は、誰にも言わなかった。
ただただ、彼は山に行った。
そこに、あの、あんちゃんが現れることは、ついぞなかった。

夏が終わろうという、ある日の夕方、久し振りに泰子と行き違った。
二人で、黙って丘を目指した。
傾いていた陽は、既に海の彼方に沈み、星が輝き始めていた。
「あんちゃんはね」泰子が語り始めた。
泰子は、かなり遠方に住んでいたらしい。だが、そこここを連れられているうちに、どこに来たのか、しかとした記憶がないという。
彼女の両親を、あんちゃんは殺したのだという。
母は、縛り上げられた父の前で犯され、二人とも殺された。
幼かった彼女は、そのままに連れ去られた。

里に来てからの二人は、一応、兄妹として過ごした。
あんちゃんは作業に入ることもあったが、多くの場合、手伝いと称しては里の女をものにし、遊楽していた。
愉しみの少ない里である。
女たちは嬉々として、あんちゃんを受け入れた。
その中に、高雄の母も、いた。
高雄は、あの日の口紅を想い出した。

高雄が驚いたのは、それら一部始終を、泰子は聞いていたことだった。
「泰子、来い」初めて抱えた泰子は、軽かった。
あの時のワンピースを、彼女は着ていた。
高雄は胡坐の中に泰子を入れ、「こうして聞いていたんだろう?」と訊ねながら、その体を我が物のようにまさぐり始めた。
泰子は平素からは想像のつかない卑猥な声を上げながら頷いた。
彼女の未だ幼い乳首は、たまらないというように硬く、高雄の指を弾いていた。

「まだ、あるのよ」喘ぎながら泰子が言った。
高雄は、なんのことか、分かる気がした。
「おばさんのこと」「ああ」二人は、もはや星光だけが頼りの中で戯れていた。
四方を、里が囲んでいた。
海が、山が、川が、崖が、全てを遮って二人だけにしていた。
眼下には、ちらほらと人家の灯りが揺れている。

「おばさんをね、あんちゃん、崖に送らなくちゃいけないんだ、って」絶え絶えに泰子が言う。「よ、洋子ちゃんもね、そう言ってるんだって」高雄を小バカにした、あの時の洋子のませた顔が浮かぶままに、泰子の草叢に手を入れると、一際、大きく泰子は仰け反った。高雄は既に、二度も放出していた。泰子の淫猥な姿態に、高雄は幼過ぎ、もう何もかもよくなり、泰子の体に夢中になっていた。

泰子が、ふっと笑ったように見えた瞬間、ガツッ、と頭が割れる音がし、高雄はゆっくりと仰向けに倒れていった。その目線の先に、洋子が今まで見たことのない顔で笑いながら、金鎚をユックリと振り下ろすのが見えた。最後に、闇に薄光を浴びた、あんちゃんが、立っていたのを・・・

あくる日、里に新しい家族が生まれ、一つの家族が消えた。
男一人に女二人の、小さな家族だ。
里は、いつもの静かな朝を迎え、丘の緑は山風を受けてなびき始めた。
前夜に男衆の一人が崖を登って行ったことは誰も知らない。
四方を囲まれた里は、新しい家族を迎え入れ、逃げ場なく天地に挟まれたまま、新しい里人を待っている。

(#)

2006-08-04 13:17 : 実験中&備忘録 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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