時間軸不在に向けて

>その拡散運動こそが、作品の目的ではないのかと思っているのです。
- 中略 -
>戦略的には、この作品と感動の(反資本主義的な)拡大再生産を、資本の拡大再生産に対置したい
Mさんのコメントより

全くの「無」から、何かが生まれるということがありえるのかは別にして、
およそ「作品」が作られたときには、某かの影が伴う気がする。
が、それが資本主義的拡大再生産でしかないとき、
その作品が一種の呪縛の元に生まれたに過ぎないものであることに愕然とする。
そういうことは、あるのではないか、とは私のような稚拙なものでも想う。
出来うれば、そのような呪縛から開放されていければ(拡散運動?)、
ことばも何もかもが、別の姿を見せるのではないか・・・

その開放に向かうのであれば、「時間軸」との対決は避けて通れないのではないか?
時間こそが、資本主義的拡大再生産の本質の一つを担う。
時間軸を失ったそれこそが、「拡散運動」のとり得る在り様のように想う。

Mさんのコメントを拝見して、そのように感じた元には、私なりの経験が強烈に不可思議な想いを残しているからだ。
以下は、信じられないのが当たり前のものとして書く。
まずは拙文「天地の間」をご一読頂いた上で、読み進めて頂きたい。



読書の好きな方は、恐らく中上健次の「岬」を想い浮かべて不思議はない。
そして、そこから書いた、と言われても、否定する術はない。
実はこの拙文を書いたのは「岬」を読む前である。
少し事情を整理して書くと、中上健次選集が手元に届いた翌日、
自分であれば、どんな作品を書くのだろう?
と興味半分に中上健次の昔の「臭い」を想い出して書いたものだ。

読んだ後には書けないだろうから、という想いもあった。
拙文は拙いこと、この上ないし、途中で端折ったりの中途半端なものでしかない。
が、一応は書いた後すぐに、私は三部作を読もうと「岬」を読み始めた。
100項に満たない小編だから、すぐに読めた。

読んだと想っていたのは別の作品だったようで(未判明)、
私が「岬」を読んだのは初めてだった。
そして、何が起きているのか、全く分からなかった。

>家事にも人殺しにも、それぞれ捜せば、理由なり原因なりがあるだろうが、そのほんとうの理由は、山と川と海に囲まれ、日に蒸されたこの土地の地理そのものによる。(「岬」P71より)

ご丁寧なことに、死人まで「崖の上」である。
続編とされる「枯木灘」に柄谷行人の解説があったので読むと、
「同時代」に同じことを(縁なく)考える人が同居する現象に触れている。
そして思想などでも同じようなことがあるので珍しい現象ではないのだろうし、
表現や「舞台」が似るなどということは普通にあるのだろう、と想うに留めた。



という経験の上で、Mさんのコメントを読んだのだが、
時間軸から開放されることが出来るのならば、
「(反資本主義的な)拡大再生産」が可能なのではないか?と感じた。

その具体的なアプローチは分からないし、
ただ可能性があるのではないだろうか?という頼りないものであるのだけれど、
相互依存的でない作品と感動の「(反資本主義的な)拡大再生産」は、
私たちの気付かないところで生じているのかもしれない。

構造を持たず、相互の意味関連からも開放された、そのような在り方は、
実は私たちの認識外に、ひっそりと隠れているのかもしれない。



追記)
当然、あるべきご意見として、ユング等の説との関係がある。
その点は(原体験的)物語の限界として理解出来るかもしれないし、
中上健次が吉本隆明の幻想論に文学の死滅を見たことに繋げることも可能かもしれない。
その意味でも、ここでは単に、最終的に解体されるべき時間軸についての感想を書いたに留まっている。
要するに、私は何も分かっていない、ということの吐露である。

2006-08-05 18:22 : 消去一葉 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :
コメントの投稿
非公開コメント

シンクロニシティ
いやあ、「天地の間」は中上を思い出しました。もっと筋をなくせば、もう中上だと思いました。

ぼくの解放は、「欲望」からの解放とかを考えていました。ひとつは歴史性です。そういう意味ではまっくさんの「時間軸」というもの、だと思います。
まっくさんの体験談からは、やっぱり最初「シンクロニシティ」を思い浮かべました。無意識を共有していて、その共有されている無意識は、まるで地下水脈のように、思わぬ離れた人のなかで、ほとんど同時に井戸水のように噴き出します。それは不思議な体験ですね。

でも反対側には、みんなそっくりな作品を、堂々と書きあっている世界もあります。売れそうな作品はみんな似ていて、そこには微妙な差しかありません。歌詞なんかいつもそうです。それは「シンクロニシティ」ではなく、資本によって植え込まれた欲望だと思っています。歴史性とは逆の「現在性」みたいなもので、ここから解放されるのが最初かもしれません。
2006-08-07 13:27 : M URL : 編集
必然としてのシンクロニシティ
Mさん、こんにちは(^^)

天地の間は、拡散し過ぎそうになったのを留まって筋化(?)してしまったかもしれません(書けませんが 苦笑)。

「岬」を読み終わったあと、実は削除しようか、と想いました。ただ「似ていることは必ずしも悪いことでではない」かと。
少し時間を置いて考えると、筆を持たないだけで、中上が居た、同じような世界で生きている人はいくらでもいる。
もし、そういう人達が筆を持っていたら「必然」としてシンクロニシティは生じるのではないか?と感じました。

時間軸のイメージは、Mさんの書かれた歴史性に近いかもしれません。そこには、やはり「欲望」が表裏にあるか、と。
そこで生じる「そっくり」は必然ではなく意図だとも言えるかもしれません。
その意図は実は自分すらもからめとってしまう・・・ことから遁走したい、というような印象を持っています。
城を立派に立派にしようとして、結果、出られなくなってしまうような・・・
そういった息苦しさは、私には少し辛いものがあります(^^;

そういう見方をしていくと「個人的作品」こそが一つの出発点になるのかもしれません。
2006-08-07 14:51 : まっく URL : 編集
« next  ホーム  prev »

拝啓




Author mak From "空白"

想一葉、兼訪問帳

星々の冷却(書肆侃侃房)
渓谷0年(オンライン版)
Both by mさん

【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

For Admin

落書内検索

月毎落書

一言お報せ

リンクは勝手に頂戴、削除してます
ご迷惑な場合は、ご一報下さい



メール・チェックは非常に稀です


BlogPeople

出現するかもエリア-転記候補