ダンボールの残埃~確信と幻想

吉本隆明の名前を懐かしく見た。
私の手元に残っている「本」は少ない。
折に触れ、選別されてはダンボールに詰め込まれて古本屋に持ち込まれていた本達。
その最後の整理の際、吉本隆明ほか数冊のみが生き残り、
今では書棚にひっそりと佇んでいるだけだ。

昨日、中上健次の文庫本を買ってきて読んだ。
学生時代には溢れるほどに本屋にあった記憶があるのだが、
今や、ただ一冊を探すのすら手間取った。
「重力の都」・・・ああ、中上は健二じゃなく健次だったかぁ、と苦笑した。

本の香りに鼻寄せたが、今の文庫本には甘い香りがないことに気付いた。
本棚を掻き回して隆明の文庫本を引っ張り出すと、やはり記憶に間違いはなく、
胸躍らせて読んでいた頃の懐かしい甘い香りが本の中から漂ってきた。
高校時代の国語教師が「りゅうめい」と呼ぶのが妙に気障に聞えたのが懐かしい。
数項、パラパラ読み返しただけだが、やはり隆明はスゴイな、と。

驚いたのは、解説を寄せていたのが中上健次だったことだ。
すっかり記憶から消えていた。
考えれば成る程、彼こそ隆明の良き理解者であり、挑戦者であって不思議はない。

隆明の三部作は、私にとっても確かに大きな衝撃をもたらした。
とはいえ決して「奇を衒う難解さ」を持つものではない。
もしかすると「素直な読者」であれば、他の凡百の思想・哲学書などよりも、
「ふむふむ、なるほど・・・」
と隆明の意図する地平に近づきやすいかもしれないくらいだ。
私が自分なりに分かった気になれたのも、多分に予備知識の乏しさによるものだろう。

少し目を通すと、過日の「確信の問題」についても、やはり幻想論は見事に応えているように想える。
ただ、それを次いでどうしたら良いのか?については、私には全く見当がつかない。

幻想論は批判も強かったと記憶している。
いや、批判というよりも感情的な反論というべきか。
久しく遠く離れてきて今、幻想論を睥睨するものがあるかは知らない。
睥睨するに及ばずとも、その「位置」を正しく批評するものがあるのかすらも。

その「序」から、比較的みじかく、また本書の性質を示しそうな一節を引いてみた。

「とうぜんおこりうる誤解をとりのぞくために一言すると、共同幻想という概念がなりたつのは人間の観念がつくりだした世界をただ本質として対象とするばあいにおいてのみである。」

中上健次は、解説の中で、こう述べている。

「『共同幻想論』は画期的な書物である。さらに同時に、思想が文学を死滅させ解体させたはじめであった。」

「はじめ」に続く今があるのかを、私は皆目、知る由もない。

2006-07-21 14:44 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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