断筆断章 -1-

削除したいことが多過ぎる
書き換えたいことが多過ぎる
書き加えたいことが多過ぎる
そして結局、書くべきは何もなかった

そんな風に感じながらも「残っていたものだから・・・」ということばかり。

詩、あるいは詩的なるものについては、やはり分からない。
ただ「詩、あるいは詩的なるものに託された好戦性」とでも言うべきものに、ぼんやりと想うことはある。

先日、TVで見た現在、流行の評論家が盛んに「既得権益(の悪)」とでも言うべきものを盛んに攻撃していた。
それは怒りに満ちていると言って良い程の発言、態度だったが、同時に苛立ち、それも「大人」のそれではなく、まるで言葉を知らないままに苛立つ子供のようにも見えた。
実際、「既得権益の問題」は「構造の問題」であって、そんなものが解決されるという静的持続性ある大団円を信じることが出来る人は少ないだろう。

いわゆる「(構造の)改革、あるいは革命」というものにしても、私の感じた限り、そんなものは日本史上では2回ほどしかなく、1つは広域に渡る権力構造の成立期、記紀に描かれた時代、もう1つは道半ばで頓挫したとも言える戦国末期の信長時代。やはり、この2つ位しか想い付かない。
信長の新しさは様々に語られているが、個人的には、その後、永らく日本を支配することになる天皇制を冒しかねない発想や感性と力を兼ね備えていた点で未だに色褪せず、斬新に過ぎるという印象が強い。これについては大和朝廷ということになろうか、その成立過程でのサンカと呼ばれる文字を残さなかった人達を代表に河原者と呼ばれた人達、その末裔との関わりから見る必要があるが、そうした時、山岳宗教をベースにゲリラ的発展を遂げた寺社勢力に対する彼の苛烈な姿勢も十二分に首肯し評価し直されるべきものと分かるだろう。
そして、「その力の」バックボーンとなったのが周辺諸国を遥かに凌駕する兵農分離であったこと。

さて、こういった事柄、観点から語られるものを表とすれば裏の存在とでも言うかのように、不問のまま託された構造として言語は成立している。言語は構造そのものであって権力であり「言の葉」などと言って優雅に語られているばかりのものではない。
もちろん、「表の構造」を支え得る価値構造を支えるという側面も見逃されてはならないものではあるのだが、そういった事柄を含めて尚、それらを先鋭的に示すものの一つ(恐らくは唯一のもの)が、「詩、あるいは詩的なるもの」なのではないか。
番組を見ながら、そんなことに想いが飛んでいた。

既得権益の本質は「共有された正しさ」とでも言い換えて良い。
「共有された正しさ」は一種の大義名分として働くことで「新しい価値観」や「新しい構造」を排除し、既得権益を保護しさえするのだ。
それこそが既得権益、その力の本質だ。

言葉の世界で言えば「意味をなさない言葉」は、文字通り「無意味でしかない」として理解され得ずに排除されることとパラレルである。
詩、あるいは詩的表現とは、「(例えば)その表現美」を以て、従来の言語理解の枠組という既得権益構造を破壊するという側面を持つ。「新たな表現美」が多くの人に美しいと感じられたとき、詩は従来の言語理解という枠組の破壊に成功したということになろう。それは又、「新しい既得権益構造の構築」でもあり、「常に言語理解を破壊し続けること」が詩に課せられた宿命であることをも意味する。
ありふれた言い方に倣えば、そこに意味や意義があるから「作る」のではなく、「創る」から意味も意義も生み出され、動的持続性という「新しさ」ばかりに魅入られた詩人は、まるで苦行者であるかのように苦悶し続けるしかない。

このことは、たとえば抒情であろうとなかろうということを問うものではない。
詩的に表現された抒情も又、作られた抒情の枠組だけに収まるとは限らない限り「創る」ものであり得るからだ。

新しい世界を投じるものとしての詩は、必然的に好戦性を帯びる。そのことこそが、詩が思想と結び付く所以だとも言えるかも知れない。
それは従来に飽き足らない私達の情念が生み出すものということとも矛盾しない。
詩、あるいは詩的なるものには託された好戦性が潜在する。
言い換えれば、その種の好戦性を潜在するもの全てが詩、あるいは詩的なるものなのだ。

また折に触れて語られる、詩の抱える「難しさ」も、その一点にあると言えるだろう。
意味や意義を「創る」とは言っても、それは決して作者一人の作業に依るものではないからだ。作者は萌芽を示すに過ぎず、それ以降のことは多分に読者の手に委ねられるのである。
そもそもに言い換え(説明や解説)可能なものであるのなら、それは直截に、その表現を以て語れば事済むのであるから、徒に詩として語られる必然性はない。言い換え、つまりは従来の枠組では不能であるからこそ、詩を仮借する。
ただ、それだけのことなのである。
付するなら、先に記した「創る」は、実は「創られる」と限りなく同義足り得るという、驚いてよいかもしれない事実があるということだろう。

元より、これらは詩を規定することを意図してはいない。
詩、あるいは詩的なるものとは何なのか?
それに対する、あくまで個人的な光の当て方以上でも以下でもない。
そのような規定すら、詩的なるものとは相反するものであるのだから。

恐らくは語り尽くされたことをもふんだんに含むだろうし、それで良いのだ。
私が満足するように書くだけ。それこそが「詩の出発点」ともなろうから。
たとえ、その「満足点」が、いつも茫洋たる彼方であっても、である。
そもそも「落書き」こそが、私にとっての詩の出発点だし、つまりは全てが戯言の落書きとしての詩的試論にしか過ぎないからだ。

2013-03-15 11:43 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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