胸いっぱいに広がる、この世界を呼吸する

詩というのは実に不思議な体験そのもので、読むことと書くこととが混然とした世界が広がっている。読むことは書くことだし、きっと書くことは読むことなのだろう。その意味において詩は「わたしたちの落果」だ。

そして車輪は、人目を忍んで回る」で取り上げさせて頂いたMさんの新作「最後の駅を発ってから眠れ」、触れて良いものかどうか躊躇ってもしまうのだけれど(いつだって私達は黙り込んでしまっているので)、やはり嬉しいので、ほんの少しだけでも・・・とは言え、本当は、本記事の題名に尽きてしまう気がする。

この作品には、従来のMさんらしい面影と、その面影に隠れていたのであろう様々なものが現れている。
敢えて二つ、隠れていたのであろうものを挙げるなら、一つは「使えないのですよ。」と伺っていたオノマトペが使用されていること。もう一つは「作品の中に入らずに、外から書いてしまう」と伺っていたけれど「中で」書かれているように感じること、だ。



特に二点目については、少し立ち入って心しながらでないと作品に吹き飛ばされてしまいそうになる。
今日、たまたま象徴詩とシュールレアリスム詩の違いについて考えていたのだけれど、それにも関連している気がするので、まず、そちらから整理すると、両者が大きく分かたれるのは作者が作品を作る「過程」にあるとしか言いようがないと感じた。技術的確立も可能ではあろうけれど、後世に至っては一時的通過点に変ってしまう可能性が高い気がする。だからといって技術的追及が無意味ということではなくて、「技術面に評価の重きを置き過ぎてしまうと本末転倒になってしまいかねないのでは?」ということだ。
そして私自身は、この作品から技術性に関わらないシュールレアリスム的なもの、換言すればプリミティブな印象を強く受けるのだ。それが「中で(あるいは混然となって)」書いているようにしか読めない理由でもあると想う。

その表れと見られるのは、例えば二行目の< そこが広場なら >である。
この箇所は、(もちろん恐らくだけれど)実際、「そこが広場なら」と書いたところで筆が止まったのだと想う。そして改めて自身に問い掛けたのだ、「そこが広場なら?」と。
その時に広がったであろう、胸いっぱいの「その世界」に私は感動を覚える。胸いっぱいに広がり蠢く世界に、呼吸しながらも止まる息、今にも飛び出すはずの次の言葉、それは言葉というより始原の言語、叫びのようであり。しかして< 予告なく吹く風一枚一枚に傷を負いながら私は背をおされる >のだ。

ここまでを読んだだけで本作は私を、その深い渦中に誘うことなく引き込んでしまう。ここに私が吹き飛ばされぬよう、細心の注意を払わなくてはならない理由がある。秘められた、そのプリミティブな引力は、同時に斥力としても強烈に作用するからだ。
しかも以降、全てのコトバが、そのように綴られている。そのため、どの行で終わっても不思議ではない本作はしかし、逆に言えば、どこまでも終わることが出来ない一作品の枠を越えた世界を包含して全体を成している。更に長年に亘る作者の修練の賜物であろうか、全行に渡って淡々と、それでも確かに開かされる美くしく濃密な詩性。
私達に少しく安息をもたらしてくれる末尾に記された< そこが広場なら、 >に至れば、ようやく一息吐けるが、同時に、その余韻はどこまでも広がりを保ったままだ。
本作は詩人の胸いっぱいに広がる世界そのものであり、その世界自体を呼吸する息遣いである。

< 二十分後に私はここを去るために電車にのっていて
  二十分後、電車は私を乗せてここを去っているだろう、ガッタンゴットン >
この「二十分後」が絶対性を持ち得ているのも、それが「その世界の真実だから」とも言える。
単なる表現上の技巧でない証拠に、「他の時間」は全て退けられてしまう。少し気取って「二十三分後」などとしたら、もうダメだ。もしかしたら「三十七分後」なら許容されるだろうか?いや、電車に乗り遅れてしまう。もし早い時間であっても乗れやしない・・・やはり絶対なのだ。

< どの岸も対岸なのですね、だれかに問われるそこが広場なら >
私達が立たされているかもしれない、その広場に作者は立っていた。
その、胸いっぱいに広がる世界、その世界を呼吸しようとしながら。



以上、倣いに外れますが、ささやかながら御礼の意を込めた未完の草稿として。

Mさんへ













- その“美の根源”について -

この作品から感得される“美の根源”は何なのだろうか、それについて少し書いてみたい。
上記を脱稿した後も作品の余韻は続いていて、いい加減に眠らねばとパソコンを閉じ、煙草を吸い、布団に潜り込んだ後も、そのこと-何故、美しいのだろう-が頭を離れなかった。

1.明滅する意識と美
尾籠な話で恐縮ながらトイレに行った時、少し形になったものを感じ、慌てて書き留めようとロール芯に書き記したりしたものが手元にあるのだが、私は、こういったことは重要だと考えている。私達の意識は常に明滅していて、その明滅により常に断絶していて、全体性を、つまりは個をぼやけた存在に押しやってしまっている。
往々にしてシュールレアリスム的作品(もちろん、それは詩作品に限定されない)に“断絶した美”が観察されるのは、恐らくは、そのためだ。吉本隆明が「なめらかな曲線で描かれる」ことの重要性を指摘していたのは、そのことであろう。もし技術を要するのなら、それがためであるが、その技術の存在自体がシュールレアリスム的でないことが自明であることは実に挑発的な皮肉だ。
「最後の駅を発ってから眠れ」に驚きを覚えるのは、そのような断絶がないことである。それも表現上の技術的、あるいは恣意的な補完によるものとは見えない。
しかし、その全体的個=個的全体とでも表現するしかない現れは、やはり美しい。

2.対立、あるいは相対化の解体と美
全体的個=個的全体と言った時、私は、そこにあらゆる対立や相対といった構造の解体を見ているようだ。それは「絶対として存在する美しさ」とも言い換えられるかもしれない。その描写は決して押し付けがましいものではないがために、ただ筆記したという、その余りに単純過ぎる困難さの向こうにある。
< 冷えきった半島 >は「温まった半島」を要しないし、< 冬の地理 >は「夏の地理」を要しない。そこにあるのは、“ただ”< 冷えきった半島 >であり、“ただ”< 冬の地理 >であるという意味で絶対性を保っている。
それは、あるいは言葉の選択性の極度な強さが成すものとも言えるかもしれないが、その強さは隠れていて見ることが出来ないという性質の強さだ。それ故に静かに、死んだまま生きており、生きたまま死んでいて、有無が同時に存在するという世界の美しさを垣間見せる作品となっていると言えるかもしれない。その体験は、あるいは私達の誕生前、個の分離前の世界の美しさから訪れるのだろうか。

3.超越的言語と美
私は他言語を良くは分からないが、この作品が他言語訳されたとしても、その魅力を失うことはないだろうと感じる。
その大きな理由の一つに触れるなら、人称、あるいは視点と言っても良いが、そう言ったものがごく自然に消失していることが挙げられるだろう。本作に現れる人称は<私><私たち><きみ><わたし>と現れるにも関わらず、その視点が必然性の中に消失してしまっている。
日本語の特徴として人称の曖昧さが挙げられるそうだが、本作の<私>は<私>でなければならないという「必然性の中で消失される私」であって、<私たち>など、他についても同じだ。
それは、あるいは超越的言語としての美が成立していると言い換えられる。もちろん、言葉の美しさを保ちながらではあるが、言葉の美しさは作品の主として依って立つところではなくなってしまっている。「言語にとって美とはなにか」は、詩作品にとっても重要な課題であり続けているが、その一つの答えと賞したい。

以上を記したことで、一応は、またもの「雪隠詰」にはならずに済みそうである(笑)。
今の私は、詩史や詩の技法、思想といったものを含めて、詩の周辺に、文学の周辺に疎いことに少し優越を感じている。もし、そのようなグラスを通して接したならば、このような愉悦は味わえなかったかもしれない、と密かに感じるからだ。
しかし、より多くの人と共に、その愉悦を味わうことは、私のような疎さを以てして可能なことであろう。私は、この愉悦は語らずしても多くの人に届くものであると想う。

(2013.04.05./13時半頃)



- 世界観の系譜窓から -

残っていた古いメモに関連して、更なる付言を少しだけ。
- 実存主義というのはフロイト的なところがあって、個の絶対化という絶対主義的傾向を感じる。
  対して構造主義というのはユング的なところがあって、個の相対化という相対主義的全体主義の傾向を感じる -
個人的には、こういう世界観の切り取り方をした時のハイデッガーは動機が前者に属し、発展過程が後者に属したのではないか、という気がしている。ハイデッガーのナチ問題というのは、そういう意味での必然であって、思想そのものではなく、(その思想の)生成や発展過程の背景にある世界観的問題ではないか?と(これは、どういう視点からでも切り取られようが)。

さて、こういった世界観の分類的系譜からは多く、絶望的なほど逃れがたいものがあるわけだが、稀に特殊ケースがあって、近しい例では稲垣足穂などを想い出す。あるいは宮沢賢治を引き合いに出すならば、彼は希求者として位置付けても良いかもしれない。
いずれにしても懐かしい言葉を使えば「周辺の人(実際には周辺ですらない)」とでも言おうか。その足跡は追うに追い難く、功績は位置付けるに難しく、継承するにも手掛かりがないという異色の人がいる。大抵の場合は、その独特の世界観的性質によって“中央”からは縁遠い所にしか存在し得ないわけだが、あらゆる価値観から遠ざかりゆく雑多な透明性は、時宜を得れば人をして惹き付けて已まない。

本作品の不思議な魅力は、そのような透明性への誘いを想い出させる。

(2013.04.05./16時頃)

2013-04-05 04:02 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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