メルロ=ポンティへの憧憬

すっかり忘れようともして数十年、メルロ=ポンティを読もうと想い立った。

私にとってのメルロ=ポンティは小阪修平によってもたらされたと言って良いと想う。彼の「思考のレクチュール」シリーズの、特に1・2巻で身体論に関わってくる所、その行き着くところがメルロ=ポンティなんだな、という印象を抱いていた。
もっとも当時、少し現代思想なんかにも興味はあるという程度の高校生だった私に理解なんぞ期待出来ようもなく、ただ「(言葉の)美しさ」というのに惹かれていたという記憶があるだけではある。それでも懐かしくて引っ張り出してきて読んだ小坂の文章には「誠実さ」といったものを感じる。

大体、本を読んでいると(この人、本当に読んだのかなぁ・・・)と、自分も読んじゃいないのに想うことがあるわけだが、特にメルロ=ポンティに関しては、その傾向が強いように想う。私自身は身体を使う趣味があるので、どうしてもメルロ=ポンティに魅かれるものがあるようなのだが、最近、ツイッターのBotで細切れながら読めるメルロ=ポンティの言葉の断片からは、どうにもメルロ=ポンティを読んだとは想えない人が多いよな、と感じざるを得ない。現象学関連の本では外せない人だと想うが、「触れないこと」が誠実さの証とでも言うほどだ。

その中では、小坂修平という人は、やはり誠実だったんだな、というのが率直な印象で、Wikiを見て、既に鬼籍入りしていると知った時は少し驚いた。彼なら、もう少しメルロ=ポンティの業績を継承した世界観を他の学問、取り敢えずは思想や哲学に結び付けられるのでは、と期待してもいたからだ。
私は全共闘を闘った人としての小坂修平は知らない。また、色々な仕事についても評価は分かれるのだろうと想う。
「思想としての全共闘世代」に低評価のレビューが寄せられていたが、読まずとも首肯するところがある。

凡そ身体を絡めて深く世界を見取ろうとする試みは、まだまだ始まりにも辿り着いただろうかというのが実際で、恐らくは上手く消化し切れていない-納得を得られるような展開が出来ない-のが実際だろうから。これは日本発という点に特徴を見たい吉本隆明にも時に見られる傾向だ。
吉本・小坂に共通する点として仏教に対する深い造詣を絡めることが挙げられるだろうが、実際、仏教というのは(他宗教でもそうであるが)、相当程度、身体の「行」に重きが置かれている。身体そのものを、ほぼ絶対的と言って良いような、ある種のコスモと見做すところまで突き抜けるのは独特かもしれないが。しかし、あの空海ですら在世中の時代はともかく、現代科学とも対峙し得る思想まで辿り着いていたかというと疑問を持たずにはいられない。全てを産む肥沃な大地としての身体の可能性は、未だ示唆されているに過ぎないように想う。

身体は、それ自体が思考も哲学もするし、社会の基礎として機能もしている。
それは身体(芸術)に携わる多くの人が直感的に感じているところだが、如何せん、往々にして身体を主にしている人は思索方面にはぞんざいだし、思索を主にしている人は身体を対象の域から脱して見るという見方から遠ざかってしまう(要は身体を動かさなさ過ぎ、ということか)。この辺りの溝は、実に不可思議な深さを持っている。
吉本・小坂両名は、それを推し進められよう要素を持っていたと想う。ただ「時」は残酷にも限られているのだな、というのが真摯な碩学にしても背負わざるを得ない宿命なのか。彼らの半分でも頭脳を分けて欲しいものだ。

もっとも私は趣味娯楽で読むのであるからして、「メルロ=ポンティの世界」を自分なりに散策して楽しもうと想う。
数十年を経た憧憬が、未だ健在であることに少し驚きつつ。

2013-05-09 12:20 : 消去一葉 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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