アンチ・オイディプス(第三章チョイまで):備忘録

「アンチ・オイディプス-資本主義と分裂症-」(G・ドゥルーズ&F・ガタリ、宇野邦一訳、河出文庫)

精神分析や資本論なんかの多少の知識は必要かもしれないけど、基本、特に関係なく読み進められるし(マジ?w)、比較的、読み易い(≠理解してる)現代思想系の本。
第一章において中心概念が丁寧に書かれてるので、それさえ踏まえていれば第二章以降は理論の演繹的適用に近くなってくる模様。
もっともラカンの業績なんかも視野に入っているので、というか、むしろ対ラカンの図式が透けて見える辺りの方が厄介かも・・・^^;

想うに第一章は相当に練り込まれていて、先ずは大凡の構想的草稿を作った後、ドゥルーズとガタリの作業が進む度に、時に全面的な書き直しも含めて改訂に改訂を繰り返したものと想う。それ位、第一章以外との整合・統合性の高い展開が見られる。
ただ基本的な理論構造は、そんなに難しく考えなくても良いんじゃないか?という気がする。まずは以下、それについての簡単な備考を少々。

<(欲望的・社会的)生産プロセスと諸段階 >
・接続-離接-連接として記述され、欲望を内在原理として自動的かつ連続的な同時発生的なものとしての生産"プロセス"~説明的には3つ挙げられちょりまする
・プロセスは、一応は三つの段階に分類(?)されてて(1)接続の部分性・非特殊性(⇔包括性・特殊性)(2)離接の包含性(⇔排他性)(3)連接の開放性(⇔有機・統合性?)となっており、後に「オイディプス」に対する批判的対比で語られる基礎の一つとなる(かなり端折ってるけど w)
 ただ、直ぐに「生産的総合」「離接的総合」「連接的総合」と書かれてゆくように「生産-離接-連接」という徐々に詳述されてもゆく諸段階の特質を一々とらまえとかないと意味不明になりかねんのがメンドイかも(しかも、そこに二重操作とか結論的な?同時性や同一性、非統一・統合性とかも導入されてきて、それにも注意せなあかんかったりするしw)w

< 欲望機械の発展的(?)概観 >
・欲望機械 ⇒ パラノイア機械(反発) ⇒ 奇蹟的機械(吸引) ⇒ 独身機械
・欲望機械という用語自体は、おおよそ三つの使用方法があり、(1)「生産の生産」に結び付けられる場面、(2)上記の4機械の総体に結び付けられる場面、(3)社会的機械に並行的対置される場面などがある

< 「器官なき身体」とは >
・まず「欲望的生産」が「生産の生産(能動と受動の生産)」として定義づけらる初段階において、プリコラージュ(器用仕事)を引き合いに出しながら「生産物と生産する働きの同一性」という有機化への一種の「反発」として現れる「非有機的な塊」と定義される
・「器官機械」に自らの「表面」を、「(エネルギーの)流れ」に自らの「未分化な不定形の流体」を対抗させる反生産に属する非生産的な性質を持つとされる
・初期の定義でも若干、触れられているように、上記のような定義や性質にも関わらず、「欲望の生産」の基点として(再生産上においても)重要な位置を占める

というような感じで第一章が進んで、第二章から精神分析(オイディプス)に切り込んでゆく、と。第三章からは社会(的機械)の発展との関連で資本主義への切り込みが始まるよー、という感じっぽいです。
んで基本、第一章の理解の度合いに応じて他が軽く読める作りだとは想うので、第一章は何度か読み返してまする(器官なき身体が諸部分に折り重なるように・・・ねwww)。
そうそう!
「器官なき身体は欲望的生産に折り重なり、これを引きつけ、自分のものにする(P31)」
ここを読むと「おお・・・もののけ姫じゃん・・・」と、あの光景が、あまりにも鮮やかに蘇ってくるので「かっちょええ・・・」と呟きたくなります・・・というか呟いてます。w



ただ読んでて気を付けたいと想うのは、ガタリとドゥルーズとの間で、かなり基礎見解というか感覚的なものに相違があるようだ、ということ。恐らくは理論的に近過ぎるからこそ生じてしまう温度差とでも言った方が良いかもしれない。「どちらが中心になって書いたのか?」もなんとな~く見当が付くような気がするくらいだから、相当の議論も交わされたんだとは想う。読んでいて難しく感じるところがあるとすれば、その一つには「二人の視点が錯綜してるようなぁ・・・」というとこにもあるし。もっとも、また、そこが面白いとこでもあるので読み手としては何とも言えないのだけれど。
ざっくり言えばフロイト-ラカン対抗担当がガタリ、大陸合理主義対抗担当がドゥルーズというとこだろうか?
と言っても、両者ともに揚げ足とりに終始するようなものでもないので、その辺は(もw)適当でいいだしょ。カントやニーチェに触れる辺りで特に顕著なように、時代性への配慮も感じられるし、軽々に非難するような意味での「アンチ」ではないと想う。



んで、資本主義(社会)関連の辺りで特に強く感じるのは、「凋落するオイディプス的西欧-分裂症的資本主義の覇者としての米国」みたいな図式になってるんじゃないの?というような危機感だ。言い方を変えれば「(今みたいな)オイディプス的良い子ちゃんじゃ終わるよ?」という警鐘の書みたいだなぁ、みたいな?
その危機に対して非オイディプス的な欲望(機械)を基礎に据えて、"脱領土的な"分裂症との関連から西欧思想の根本を問い直すものとして読んだ場合、この本が「古典」として読まれたとしても、実際にEU凋落なんかを目の当たりにすると現在進行形の問題として意義なしとは想えん気がする(とは言え、米国的覇権社会の崩壊も視野に入ってるとは想うけど)。

ただ正直、日本人が読んでピンと来るか?と言われるとビミョーじゃなかろうか?^^;
というのも「オイディプス的三角形」への批判が本格的になり始める辺りで顕著に感じるのは、「このオイディプス的三角形って、むしろキリスト教的三角形じゃね?」みたいなものだからだ。ここでいうキリスト教的三角形というのは三位一体でも良いのかもしれないけど、より身近には「キリスト(神?)-マリア様-私」で形成されるもので、(実際の)親子関係から「(父としての)キリスト-(母たる)マリア(そうすっとファルスたる「神」は「+n」か?)」とはならないんだけど、要するに「バイタリティを失してしまうような抑制的閉塞性を持つ三角形」のこと(抑圧と抑制まで区別せなアカンというのが面倒だべし・・・って、欲望と欲動もチと、ちゃうのよね・・・orz)。

知的興味は尽きないし、非常にエキサイティングなのに「えっと・・・そこ、どうでも良くね?」と感じてしまうところも結構あるのは、大体が、そういうキリスト教(そしてギリシャ)的な背景が透けて見るように感じるところだったりする。むしろ「キリスト教的三角構図」の代り(要するに生贄か?^^;)としての「オイディプス的三角形」を見直してるような印象を受けるので、最後は「良心的な批判的容認の方向」にまとまらざるを得ないんじゃないかなぁ?

んで「そういう問題意識」が根底に、それこそ無意識の生活レベルまで浸透している中で培われる思想を「うんうん、分かる!」という理解の仕方は、日本人には厳しいだろう・・・と言い訳するのよぉ~!( ̄▽ ̄;
汎神論的世界観の中、「親はなくとも子は育つ」的小コミュニティ。そこに敢えて「三角図式」を持ち込もうとすれば持ち込めるだろうけどさぁ・・・という感じじゃろか?そもそも(神なるものへの)不敬の感覚が全然ちゃうっぽいので、これは米国も含めてだけど、欧米で評価されるような「しっちゃかめっちゃかさ」というのが日本人にとっては「は・・・い・・?」という程度(逆も然り)だったりすることが多かったりするしなぁ^^;
そういう意味では、西欧人にとっての日本というのは本当に「カオスなオトロシイとこ」があるんかもしれんなぁ・・・



更に西洋(思想)的には「人であること」というのは根本的な重大事になるようだけれど、これは「人殺し」という場面で日本人的感覚(?)と対置すると「・・・」だったりする。
たとえばWWⅡで日本兵達は、ほぼ無手(武器なし)に近い状態であっても戦車だのなんだのに突っ込んで行ったりしたわけだけど、「そりゃ自殺行為だべさ・・・ヽ(><)ノ」というのは数字的には否定されかねんかったりするのだ。その辺は「戦争における『人殺し』の心理学(グロスマン・ちくま学芸文庫)」なんかに詳しいけれど、なんと!ライフルだのなんだのを持って傍観してた事例が普通と言えるほど多かったという。んでもってWWⅠやⅡなんかのデータだのを分析して、あまりの非効率さに愕然とした米国はどうしたか?というと、訓練用の「的」を人型にしたり、「敵」を人間でないモノとして洗脳したり・・・して、ようやく殺傷率を上げるということをしちょったりする。
ところが日本人の場合も「鬼畜米英!」とか言ってはおりましたが・・・日本人が国際的に温和で優しく協調に富み素晴らしい的なことなぞ言われたとしても「そりゃ、そういう文化でもなければですね・・・」という( ̄▽ ̄;
ちなみに私的なことながら、おいらの海軍志願兵だった爺さんは、戦直後「これからは電子戦じゃ!」ということで親父を電気科に進学させましたとさ・・・orz



んなわけで、日本人にとって西洋哲学がムズく感じる理由の一つは、やっぱ文化基盤の違いからくる感覚的レベルでの理解や問題意識の距離、遠さがあるんだろうなぁ、と。
他にも、そんなのを典型的に感じるのが、本書前半部の要点にもなるんだろうけど・・・
「真に唯物論的な精神医学は、-中略-メカニズムの中に欲望を導入すること、欲望の中に生産を導入することである(P51)」
「欲望は、こうしたもろもろの受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する(P58)」
というとこらでありましょうか?

要は、欲望の源泉ちゅうか住処ちゅうか、そんな無意識の深い世界にあーじゃこーじゃの区別なんてないっしょ?好き放題っしょ?みたいなことを言いたいらしいんだけど、阿頼耶識みたいなもんかと(ちと違w)。
いずれ性善だの性悪だの言ったって、どっちにも転ぶもんだべさ・・・的感覚で生きてる人たちには「そんなん当たり前じゃないん?」みたいな。「神との対決」を経る必要がなければ、そうなるべさなぁ。「切実さ」のレベルからしてちゃうんだよねぇ・・・( ̄▽ ̄;



んで個人的には、ここらを要因として日本(人)にとっては言語(認識)論や身体論、現象学的課題が重要になってくるんだと想う。経験主義≒合理主義みたいなとこがある「世界的には異文化としての日本人の世界観」とでもいうようなのを、言語(認識)の違いや、その基盤としての身体の違いという「現象」の地平にまで遡って位置付けしとかんと、思想的交通すらが成立せんべさ?と。
幸いにして、その辺の科学的知見は相当程度、進んできてるっぽい。そもそも今時、心身二元論なんて科学的に成立せんじゃろうし、それどころか「"等価"としての心身一元論」というレベルまで到達してきてるらしいしの。
先ずは「故に西洋文学やら思想哲学がチンプンカンプンでも不思議じゃないのですっ!!」というのを出発点(言い訳)として語っとこ・・・w



・・・って、全然、備忘録じゃないじゃんw
しかも悲しきことに眼痛が少しぶり返してて読書が・・・書き物貯金も尽きてるし・・・(TへT
まだまだ読みたい本も書きたいこともあるけど、まあ適当に・・・ですなぅ^^;



(#)

2013-05-30 19:04 : 実験中&備忘録 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
コメントの投稿
非公開コメント

« next  ホーム  prev »

拝啓




Author mak From "空白"

想一葉、兼訪問帳

星々の冷却(書肆侃侃房)
渓谷0年(オンライン版)
Both by mさん

【 無意味という意味 】
すこしの風を追いかけて
【 短文 】
大海にも降る一滴
2015.07.17.

For Admin

落書内検索

月毎落書

一言お報せ

リンクは勝手に頂戴、削除してます
ご迷惑な場合は、ご一報下さい



メール・チェックは非常に稀です


BlogPeople

出現するかもエリア-転記候補