アンチ・オイディプス(下巻チョイ):備忘録

1冊読むのに1週間も掛かっているというw
もっとも集中して読むと疲れるし、しゃーないかな、と。
相変わらず戻り読み(?)しながらだしのぅ・・・( ̄▽ ̄;

さて2章では「接続-離接-連接」の流れでのオイディプス批判と、5つの誤謬としてのオイディプス批判が大きな流れとして記述されていたわけですが、ついに3章では社会機械の分析(?)へと突入。
一応の図式は、大地-専制君主-(帝国-)資本主義という3形態に分けて分析される、ということでいいのかなぁ?
実際には二分法になってる気がするんだけど・・・



んで3章では社会機械の特質とも言えると想うのだけれど、コード化-超コード化-脱コード化とかが頻繁に語られる。
何が一連のコード化対象となるかというと、全ての<流れ>としか言いようがないのだろうけれど、特に出自と縁組という二つの個人の措定のされ方の重み(?)が増してゆく感じ。

重要な近親相姦の禁止が何故、生じるのか?という辺りの議論は少し自家撞着的に感じるけれど、結果的には出自の外延性や縁組と言った展開を生むエネルギーみたいなもんになる、ということで良いのかなぁ。
順を追って読んでる分には、それももっともですなー、と想うんだけど、何分、独特の筆致が追憶を許さないのが辛い所。orz
人が社会的に展開してゆくということで良いのかな?登記を巡る議論もベースにあるんだけど、何分、視点自体も引き裂かれてゆく感じだすので・・・



砂漠が云々、出てきた辺りで旧約聖書の話が絡んでくるんかなぁ、と想ってはいたけれど、下巻が丁度、その話からスタートしちょりまするな。
決して資本主義万歳ではない危機感を背景に持ちながら、その危険性の起原を一生懸命に探っている、という感じだろうか?

ただ書かれた時代のことを考えると、資本主義を超コード化したようなネット社会をどう見るのかな?とか考えると面白い。
現時点ては、まだ少し遠いかも知れないけれど、ネットという「大地」の本格的な確立がなされたときには、貨幣や資本の表象もガラリと変わってゆくのかもなー、とか。
もっとも、それも帝国主義の中でのことではあるのだろうか。

それにしても自由ってなんだろねぇぃw
不自由さこそが、そのまま自由さであるということがメタファーでない事実として明かされてしまうと、本当に身もふたもないというかねぇ・・・( ̄▽ ̄;



併読している「レイム・ディアー(現・インディアン魂)」には、辛うじて記憶されているインディアン社会の様子も描かれているのだけれど、大地機械に相当することが書かれていて興味深い。
レイム・ディアーは英語を刻まれる前の記憶も強く持っているので、その視点から語られるアメリカ(資本主義)社会というのも素朴かつシンプルなようで、中々、出てこない言葉にあふれている。
アンチ・オイディプスの中で植民地化が、どう語られるのかは、まだ分からないけれど、後戻り出来ない現実と向き合うためにも「その現実」を見定める必要はあるだろう。



想い出したのは、かつての日本が「子供が大事にされ、彼らにとって天国のような国」と評されたという歴史の言葉。
レイム・ディアーの語るインディアン社会においても全く同様だったそうだ。
逆に言えば資本主義化の中で、子供は虐待される存在になった、とも言える。
アンチ・オイディプスちっくに表現すれば、「子供というファルスの喪失」こそが資本主義なのかもしれない。

2013-06-08 00:11 : 実験中&備忘録 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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