吉本隆明初期詩集「(海の風に)」:備忘録

講談社の文芸文庫は好きな作品も多くあるのだが、如何せん高いです・・・orz
「吉本隆明初期詩集」は本文P240ほどなのに\1,400-もするだー!
文字単価、めっさ高そうですw

この中に「(海の風に)」という作品が所収されていて、P33程の長いというか短いというか・・・という詩がある。
断続と持続とについて考えさせられる作品で、その点について若干。

フーコーは、「言葉と物」の中で歴史上に現れる非連続性、それが見かけ上のものでしかないということを書こうとしたという。
彼のインタビューでは、そのことについての一般的理解が得られなかったことへの落胆が表明されている。
今、読んでいる「アンチ・オイディプス(D/G)」でも、社会体が大地的・帝国的・資本主義的な三態様を示すことを、いわば紐解きながら、それらの外観上の断絶にも関わらず、その包括的な持続性とでもいうべきものにも注意深く触れられていて、その種の観点というのは、ある種の確信として(歴史への信頼とでも言おうか?)共有する人が多いのかもしれない。

「(海の風に)」の中で見られる外形上の断絶は、P84での次の表現に現れる。
“嘆きは架空の風
 そのきらめきのうち
 悲しみはむなしいうつくしさのなか
 かはらない真実は
 能面のやうに
 寺院のしづかさにすはつてゐる(連途中まで)”
P66から始まる本作上、実にP18目にして初めて現れる、「は」による途切れ、断絶。

この後、一連を間に挟み、数連において同じような「は」の使われ方が見られるが、「かはらない真実“は”」と何気なく書かれているようにも見える箇所には、それまでの持続的に感じられていた「何か」の断絶を感じずにいられない。
ここで「かはらない真実が」と、「は」ではなく「が」が用いられていたのなら、そのような断絶は些細なものとして見過ごしかねないようなものだけれど。

どのような理由による断絶なのか?
それは、あるいは吉本の生活上の理由、たとえば家族との団欒の時間という本当に些細なものだったのかもしれない。今となってはそれは何とも言えないが、ただ「詩作上で生じるもの」という、ある種の確信を持つ人は多いのではないだろうか。
とすれば、この「は」というのが、実は外形上に現れる非連続性であることを想起するからだろう。

「かはらない真実は」と書き終えた時、「は」は敢えて言えば内向する持続性を保証していたのである。
内向の極限において展開し、やがて外向するものとしての「それ」は、この時点では潜在的なものとならざるを得ないのだ。
あるいは作者によっては、「かはらない真実は」で作詩を終えるということもあろう。それが可能であることは読めば分からぬでもない。
しかし吉本は「終えなかった」のである。

その正体を知るべく然る時間を経て浮かぶ「能面」。
更に、その向こうに浮かび上がる「寺院のしづかさ」。
吉本の「かはらない真実」は・・・能面のやうに寺院のしづかさに、すはつていた。
それは気障なしたり顔で言うとすれば吉本の内奥の寺院、その「しづかさ」である。

私達は誰しも自身の内奥に向かう運動において、断絶しない非連続性とでもいうべきものを認めざるを得ない。
「(海の風に)」においては、そのような心的形象とでも言うようなものが、非常に的確に表現されていて、私は、そこに、この詩の美しさの一つを見る。
また、その心的形象のダイナミズムに心寄せることは、この一見、平坦な筆致の本作品を読む一つの楽しみでもある。

(#)

2013-07-06 13:45 : 実験中&備忘録 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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